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(野菜情報 2019年2月号)


パクチ-ブームと日本への定着

作家・生活史研究家 阿古 真理

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2016年に流行のピークになったパクチー

平成の30年間(1989~2018年)は、食がファッション化した時代で、実にさまざまな料理、食品、食材が入れ替わり立ち替わり流行した。ティラミスブームからスイーツブームへ至った1990年代。この10年はパンブームで、本1000円もの高級食パンやさまざまな食材を挟んだコッペパンなどがはやっている。もつ鍋がり、ホルモン焼きが好まれ、熟成肉やジビエがブームとなる。

外国料理のブームもあった。タイ料理、ベトナム料理、インド料理、南インド料理、スリランカ料理、ハワイ料理、モロッコ料理など北アフリカのタジン鍋料理……。

そんな食の流行の中に2016年、株式会社ぐるなび総研がその年の世相を映すとした「今年の一皿」に選ばれたパクチー料理がある。パクチー料理とは、パクチーをたっぷり使った新しいジャンルの料理である。

2016年が流行のピークだったのは、エスビー食品株式会社やユウキ食品株式会社などから、パクチーペーストやパクチーソースなどの調味料がいくつも出たほか、レトルト食品、スナック菓子なども出始めたからである。また、グルメ情報誌の『dancyu』(プレジデント社)が、月号で「パクチー偏愛主義」という特集を組んだほか、NHKの『きょうの料理』でも月号で「もっと身近にパクチーレシピ」特集した。『きょうの料理』でパクチーを使ったレシピはそれまでにもあったが、名称は「香菜(シャンツァイ)」と中国語で表記されていた。しかしこの号から、このセリ科の食材が「パクチー」と表示されるようになるのである。

呼び名がタイ語のパクチーと定まったのは、ブームになってからだ。それまでは香菜のほか、英語名のコリアンダーも使われた。なかなか呼び名が定まらなかったのは、食材として定着していなかったからである。それがなぜ、急激にブームになったのだろうか。

日本へのパクチーの定着

まず、東南アジアなどのアジアの料理が、流行って定着したことが背景にある。私は去年出したアジア料理の日本史の本『パクチーとアジア飯』(中央公論新社)で、日本で流行って定着したアジアの料理を、「アジア飯」と定義させてもらったので、ここからはアジア飯と書くことにする。

アジア飯の中で、最も存在感が大きいのは中国料理だ。もともとつき合いが長い中国の料理が、開港地だった長崎以外の地域に広まったのは、肉食が解禁された明治以降である。中国料理店ができ、レシピが紹介される。明治後期になると留学生が増え、戦争やビジネスで行き来が活発になったこともあり、次第に広まっていく。

戦後は『きょうの料理』で西洋料理、和食と並べて毎週紹介されたこともあり、炒め物など中国料理の調理法や食材が広がっていく。そうした中で、中国でもトッピングなどで使われる「香菜」が、時折紹介されるようになる。

パクチーという名称も含めてこの食材が注目を集めた最初は、1980年代後半から始まったアジア飯ブームの折である。流行をけん引したのはタイ料理だった。その際、タイでトッピングに使うことが知られ、パクチーというタイ語も一部で定着し始める。

実は、日本で紹介されてからの歴史は長い。平安時代の法令集『えんしき』(927年)や、漢和辞典の『みょうるいじゅしょう』(934年頃)で「胡荽(こすい)」と書かれて登場する。

南蛮貿易の時代にも、ポルトガルの名称「コエンドロ」とともに入ってきた。江戸時代の料理書『料理塩梅集』(1668年)にもすしの薬味として紹介されている。料理書の薬味という扱いは、もしかすると中国経由で来た使い方で、葉っぱを指しているかもしれない。しかし、ポルトガルから入ってきたものは種だと思われる。というのは、この時代にヨーロッパで葉っぱを使う習慣はなかったからである。明治時代にカレーが入ってきてから、カレー粉の原料として欠かせない種は、コリアンダーという名称で定着した。しかし、葉っぱは顧みられることはなかった。なぜなら、西洋料理に使われていなかったからである。

ヨーロッパで葉っぱが使われるようになったのは、ベトナム戦争などアジアの政情が不安定になり、1970年代後半にアジアからの移住者が増えたためである。彼らが飲食店を開いてアジア飯ブームが起き、葉っぱを料理に使うことが広まったのである。アメリカでも同じ頃にアジア飯ブームが起こっており、数年遅れて始まった日本のブームは、欧米の影響を受けた側面もある。

タイ料理で始まった日本のアジア飯ブームは長く続き、1990年代後半から2000年代初頭にかけて流行ったベトナム料理へと人気の中心が移っていく。ベトナム料理でもフォーのトッピングや、ベトナム風お好み焼きのバインセオに挟む野菜の一つとして使われるようになり、パクチー=アジア飯の食材というイメージが定着していく。

その後アジア飯ブームは沈静化したが、2010年代後半、再びブームが訪れる。それは、この時期にアジアから移り住む人が増えたことが大きい2017年には、人口の2%近くを外国出身者が占めるようになっている。特に増え方が大きいのは2010年~2017年に約倍になったベトナム人、約3.5倍になったネパール人、万人増えて20万人になった中国人である。

その中には、お国の料理店を開く人もいる。彼らが店や日常生活で必要とする輸入食材店も増えた。東京では上野や池袋、新大久保、蒲田などアジア人が多く住む店には、輸入食材店がある。そういう店には、他の野菜と並んでパクチーも置かれている。

食のファッション化を通じて、好奇心旺盛なグルメも増えた。アジアへ旅行したことがある人、住んだことがある人も多い。何しろ海外旅行客は平成の間毎年1500万人前後もいて、渡航先の上位はアジア各国・地域が占める。日本企業のアジア進出も増えているので、駐在したことがある人や出張したことがある人も多い。本場の味を食べ慣れている人、アジア飯を好きな人が、現地出身の人が開く本格派の店に行くようになってブームが始まった。

このように、アジア飯に親しむ人が増えたことが、パクチー好きの層を広げていったと考えられる。

ブームをけん引したパクチー専門店

パクチーは、その特有の香りが「カメムシみたい」と評されることがあり、好き嫌いがはっきり分かれる食材でもある。嫌いな人もいることから、遠慮していたパクチー好き、パクチーマニアたちが、思い切りたくさん食べられるようにしたのが、パクチー専門店である。

ブームのもう一つの要因は、このパクチー専門店にある。2007年に東京・経堂で開いたパクチーハウス東京が、最初の店だ。同店は、アジア飯などにヒントを得て独自に考案したパクチー料理を出し、レシピをインターネットで公開した(写真1)。店主の佐谷恭さんは、まず2005年にパクチー好きのサークル、日本パクチー狂会を立ち上げている。仲間とさまざまな店でパクチーパーティを開き、飲食店でパクチーのお替わりを頼む。「パクチーを薬味から主役に!」とぶち上げた佐谷さんは、IT業界の会社員だったが、2007年に子どもが生まれたことをきっかけに脱サラして店を持つ。

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最初、周囲から「ばかげている」「ニッチ過ぎる」など批判されたが、世界初の店は注目を集めて取材が殺到した。そして、パクチー好きが集う人気店になり、やがてメーカーの人たちが佐谷さんにパクチー商品開発の相談にも訪れるようになる。2010年代半ばになると、後追いのパクチー専門店も次々とできていく。ブームの背後には佐谷さんとその仲間の貢献があったのである。

残念ながら同店は2018年月に閉店したが、佐谷さんはパクチーハウスの名称で、イベントその他のパクチー普及活動を現在も継続している。

国内生産の開始

パクチーをたくさん使うためには、国内生産が必要である。アジア飯が人気を集めだした1980年代はまだ少なく、パクチー好きはいくつもの店をハシゴして売っているところを探した当時の思い出を語る。主産地の一つ、静岡県のJA遠州中央(袋井市、磐田市、浜松市、森町)の管轄下で、栽培が始まったのは1981年である。

アジア飯人気の広がりを受け、岡山県で生産が始まったのが2000年のこと。生産者の植田輝義さんが東京の市場関係者から勧められたのである(写真2)。しかし、まだポピュラーな野菜ではなく情報も少なかったことから、栽培方法も試行錯誤だった。そして、特有の香りが嫌われた。その香りを知らなかった植田さんは、初めて作ったときには、背骨が折れるかと思うほどのけぞって驚いたそうである。周囲の生産者たちからもその香りが嫌われ、体に「臭い」「きつい」「カメムシの臭い」が染み付いていると言われてしまう。婿養子として来た植田さんは肩身の狭い思いをしながら、良質なパクチーを生産する努力を続け、周囲を説得して少しずつ生産仲間を増やしていった。

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数年前には、マイルドな香りで生姜焼きなど和食にも合う、と使っていた品種の種を、種苗会社が生産を取りやめる問題も起こった。しかし、義母から勧められて採種まで行っていたことで、何とか危機を乗り切れたのだという。2018年の西日本豪雨で植田さんの畑は大きな被害を受け、岡山市の産地のパクチー生産量は半減した。しかし、これからもパクチー栽培は続けていくつもりだ、と力強く電話で答えてくれた。

今は、千葉県や茨城県などパクチーを生産する地域は広がっている。その結果、ときどきハーブコーナーに置かれる程度だったパクチーが、数年前からスーパーの野菜コーナーにも比較的安い値段で並ぶようになっている。生産量の増加が、パクチーブームを背後で支えている。好き嫌いがはっきり分かれる特有の香りは、病みつきになる魅力でもある。その強い個性が、ブームを呼んだのではないだろうか。

植田さんは、パクチー生産に取り組むことで、視野が広がり味覚の幅も広がったと話す。地元の小学校の食育活動に参加し、給食に採用されたり、高校生とアイスクリームを開発するなど、世界を広げるきっかけになったことを喜ぶ。「パクチーを日本の野菜にしたい」と語っていたが、野菜売り場に進出した今、その夢は叶いつつあるのではないだろうか。

阿古 真理(あこ まり)

【略歴】

1968年兵庫県生まれ。

作家・生活史研究家

神戸女学院大学卒業。

食や暮らし、女性の生き方などをテーマに執筆。

著書に『パクチーとアジア飯』(中央公論新社)2018年8月

『昭和の洋食 平成のカフェ飯』(筑摩書房)2017年2月

『小林カツ代と栗原はるみ』(新潮社)2015年5月

『「和食」って何?』(筑摩書房)2015年5月

など。


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