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話題(野菜情報 2018年4月号)


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地域の野菜生産に貢献する 種苗会社

種子屋の近代史研究者 阿部 希望

1 はじめに

均質で収量も多く、おいしくて病気に強い野菜を作りたい――。それは、いつの時代も変わらない野菜農家の要望であろう。こうした農家の要望に常に寄り添い、良質な種子を安定的に供給してきたのが現在の種苗会社であり、その前身の種子屋であった。表は、昭和初期までに創業した代表的な種苗会社を列記したものである。ここに列記した以外にも、種苗業界は大手メーカーから町の小売店まで、長い業歴を有する会社が多く、創業100年以上の老舗会社も少なくない。こうした種苗会社が、古くは江戸時代から、明治・大正・昭和・平成と、種子づくりを通して日本の野菜生産を支えてきた。

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2 種苗業のはじまり

商品としての種子づくりが始まったのは江戸時代であった。江戸が100万人都市に発展すると、その近郊農村である現在の東京都豊島区・北区・荒川区・板橋区・練馬区の一部に該当する地域では、練馬だいこんや滝野川ごぼうなどの野菜が生産された。そこには人々の往来の激しい中山道が通っており、野菜の評判を聞きつけた旅人たちが、江戸土産の一つとして農家から種子を買うようになったのが種子屋の始まりとされる。しかし、この頃の種子屋の本業は、あくまでも農家であり、自家採種したときの余りの種子を副業として軒先で販売していた。江戸に限らず、愛知のみやしげだいこん、京都の聖護院だいこん、鹿児島の桜島だいこんなど、各地の土地条件に合った個性的な野菜が誕生したのもこの頃とされる。

種子を採るための方法としては、採種目的によって作物を雌と雄に区別する「草木雌雄説」という考え方が広く支持されていた。例えば、当時1800部を売り上げたとされる『草木撰種録』(文政111828年刊行)には、稲・麦・雑穀・豆類・ごぼう・だいこんなど、33種類の作物の雌と雄の見分け方が図解化され、そこには「雌を選んで種子を採ると豊作になる」という説明書が添えてある(写真1)(注1)。作物を雌や雄に区別することは科学的には誤った考え方であるが、種子づくりの方法がまだ確立していない江戸時代の農民が、優良な種子を選択する上で一つの指標となった選種法であった。

注1:雌だけではなく、雄を選ぶと豊作になるという説も存在する。例えば、天保3(1832)年に刊行された『草木六部耕種法』では、「根菜類の種子は雄の種子を植えるべきである。雄は真っ直ぐ伸びる性質があり、雌は横に広がる性質があるためである」と記されている。

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3 固定種を生み、育て、広めた「種子屋」

科学的かつ体系的な種子づくりが始まったのは明治から昭和戦前期であった。野菜生産の第一次ピークを迎える大正中期になると、種子問屋・種子仲買商・種子小売商といった種子屋の分業化が進み、その数は全国に3500軒以上にも及んだ。そして、種子需要が増大・多様化していくなかで、新たな種子づくりが求められた。

種子を採るための方法としては、「選抜育種技術」が考案され、「固定種」が育成された。選抜育種は、育種目標に沿うように、それぞれの野菜がもつ特性を見極めながら人為的な選抜と採種を数世代にわたって繰り返し、遺伝形質を固定していく方法であり、この固定された品種を固定種という。固定種の育成だけではなく、育成した固定種を維持し続けるためにも、選抜育種は欠かせない。写真は、種子屋によるだいこんの選抜育種時の様子である。ここで選び出しただいこんの形質が、そのまま次世代のだいこんの形質に反映されるため、選抜する際には、だいこんの葉・首・毛筋・尻・肌まで、全てを厳しく観察し、選抜していた。

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その他にも、この時代には、種子屋の組合を作り、種子の品質の維持や値崩れを組織的に守る仕組み、採種を近隣の農家に委託することで種子を大量に生産する仕組み、採種管理人という人物を置いて採種農家への技術指導や種子集荷を種子屋に代わって担わせる仕組み、通信販売によって遠隔地の種子を相互に取り引きできる仕組みなど、高品質な固定種を大量に生産・流通させる仕組みが次々と築かれた。これにより、農家は各地の特産種子を手軽に入手できるようになるとともに、市場に出荷するための条件となる形や大きさのそろった野菜、すなわち固定種の野菜を安定的に生産することが可能となったのである。

4 固定種からF1品種へ

こうした種子づくりの状況が一変したのが昭和戦後期以降であった。昭和251950年にタキイ種苗(京都市)から、F1キャベツ「長岡交配1号」とF1はくさい「長岡交配1号」が発表されたのを皮切りに、各種苗会社からかぶ・だいこん・芽キャベツ・ブロッコリー・たまねぎ・にんじんなど、各品目の「F1品種」が販売された(注2) 2)

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F1品種とは、異なる2種類の親品種を掛け合わせることによって生み出されるものであり、一世代に限り、掛け合わせた親品種よりも生育や耐病性が優れ、品質もそろい、収量も高くなるという特性をもつ。その際、掛け合わせる親品種には固定種が使われており、選抜育種によって維持されてきた多様な固定種を用いて、何百何千という組み合わせの中から育種目標となる形質を備えた系統を発見し、新品種が育成される。

昭和411966年に野菜生産出荷安定法のもとで指定産地制度ができ、群馬県のキャベツや熊本県のトマトのように、一つの品目に力を入れる産地化が進むと、固定種に比べて格段に栽培しやすく、多収量で均質なF1品種が広く農家に受け入れられた。この過程で、地域に根づき、独特の形や風味をもった固定種野菜の多くが姿を消していった。固定種野菜の消失は、固定種種子の消滅を意味し、しかも、固定種種子は一度消滅すると、その野菜を二度と復元することはできない。

注2:世界初のF1野菜は大正13(1924)年に埼玉県立農事試験場で育成されたなす「浦和交配1号」であった。以降、昭和戦前期までは奈良県・大阪府・北海道の農事試験場でF1野菜の試験研究が進んだ。しかし、これらのF1野菜は戦争の影響により、市場に出回ることはなかったという。

5 今、再び注目される固定種の意義

筆者は、固定種の種子に注目することは、二つの点で重要な現代的意義があると考えている。一点目は、地域の伝統的な野菜の継承である。近年、固定種でつくる野菜が「伝統野菜」として再評価されている。例えば、東京都の江戸東京野菜、石川県の加賀野菜、京都府の京野菜、大阪府のなにわ野菜など、大々的に宣伝され、年々生産量を増やしているものもある。和食という日本の食文化が注目されることで、伝統野菜の生産はこれからさらに広がり、固定種の重要性も一層高まることが予想される。

二点目は、遺伝資源としての可能性である。F1品種は、固定種の親品種を掛け合せることでつくられる。F1品種の親であり、品種開発の育種素材ともなる固定種を確保することは、今後、私達が驚くような画期的な新品種が生み出される可能性を広げることにつながる。先人たちが守り続けた種子があるからこそ、伝統的な品種と新しい品種、二つの野菜づくりが可能となる。F1品種の野菜が広がる現代の野菜づくりにも、固定種の存在は不可欠なのだ。


阿部 希望(あべ のぞみ)

【略歴】

昭和59年、栃木県で生まれる。

筑波大学第二学群生物資源学類を卒業後、同大学院生命環境科学研究科博士後期課程修了。博士(農学)。

日本学術振興会特別研究員PD及び学習院大学史料館臨時職員、国立公文書館つくば分館非常勤職員を経て、現在、近現代の農産物種子を対象に研究継続中。

著書『伝統野菜をつくった人々-種子屋の近代史-』(農山漁村文化協会)で2016年度日本農業史学会賞を受賞。

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