立教大学 経済学部
助教 関根 佳恵
野菜の地理的表示といえば、「京の伝統野菜」や「加賀野菜」などを思い浮かべる人が多いだろうか。数十年から数世紀の長い時間をかけて、野菜農家が選抜し継承してきた地域固有の野菜を食する楽しみは大きい。周知のように、日本において地名と商品名を組み合わせた商標は、2006年にスタートした地域団体商標制度の下で保護されている。ところが、この地理的表示の保護制度として、新たな制度の導入が検討されている。新制度の導入検討には、どのような背景があるのだろうか。
そもそも、地理的表示は知的所有権の一種として、WTOやTRIPS協定(知的所有権の貿易関連の側面に関する協定)の枠組みの中で議論されてきた。1990年代には、WTO体制の発足によって、農業分野においても一層の貿易自由化と農業保護の削減が決定付けられた。こうした情勢を受けて同じ時期に、価格支持によらない農業振興や地域活性化の手法としての地理的表示保護制度が世界的に脚光を浴び始める。
特定地域から産出される農産物や食品の地理的表示保護を強化することは、他産地の競合産品と差別化を図る上で有効である。そのため、EUは特に市場競争力に劣る条件不利地域の農村振興にも有効な政策手法として、1992年にフランスなどの制度にならって地理的表示の法整備を行った。シャンパンやパルマハムなどが有名だが、野菜・果実の登録数は223種類(2010年)にのぼり重要な一角を占めている(全登録数の約2割)。EUの地理的表示制度では、生産者団体は自らが作成して公的機関の審査を受けた厳しい生産基準と品質基準に則って生産しており、消費者からの評価も高い。EU型地理的表示を導入した農産物や食品は、類似品と比較して高い付加価値と最終小売価格に占める農業生産者の手取り割合の上昇を実現している。また、偽装品取締りにおける公的機関の役割が明確で、特に中小規模の生産者にとってはメリットが大きい。
しかし、このEU型地理的表示は自由貿易を標榜するWTO協定に違反しているとして、米国およびオーストラリアの要請によって2003年にWTOパネルが設置された。EUとは異なり商標制度の中に地理的表示を位置付ける米国側と、地理的表示をより手厚く保護するEU側はそれぞれの正当性を主張したが、これはすなわち農産物や食品の貿易体制の在り方そのものを問う論争でもある。どのように地理的表示保護制度を確立し、どの範囲の国・地域でどのような制度を共有するか如何によって、各国・地域の国際的競争力が大きく影響を受けるためである。WTOパネルの結論は、EU制度はTRIPS協定に違反していないというものだったが、地理的表示の保護制度の在り方は、現在もWTO交渉の重要な議題として継続的に議論されている。
ところで、日本の現行の地理的表示制度は地域団体商標制度に依拠しており、商標権による保護という点で米国型の制度に類される。しかし、日本政府は2010年3月に閣議決定した「食料・農業・農村基本計画」の中で、EU型の地理的表示制度の導入検討を表明し、2012年3月には有識者による第1回目の研究会を開催した。
知的財産権をめぐっては、中国における米国Apple社を相手取った商標権争いが話題を集めたばかりだが、農産物や食品における地理的表示制度をめぐっても動きは活発である。EU型の地理的表示制度は、すでにブラジル、インド、中国、韓国等、数十ヶ国が導入しており、例えば韓国とEUはFTA協定において相互の地理的表示の承認と保護を円滑に行っている。
EU型制度は、日本の地域団体商標制度に比べて品質保証的性格が強く、偽装表示取締り等における公的機関の役割がより大きく発揮され、保護が手厚くなっている。さらに、TRIPS協定の枠組みでも商標制度とEU型地理的表示制度は共存可能であると判断されているため、EU型制度の導入は、国内市場および海外市場を目指す日本の農産物や食品にとって有益であると考えられる。
しかし、EU型の地理的表示制度導入によって期待されているのは、名称・呼称の権利保護だけではない。EUでは、地理的表示の認証を受けるためには、生産者や加工業者等からなる団体自らが協議を重ねて、生産地域のエリア、生産基準および品質基準等に関する詳細で厳格な仕様書を作成しなければならない。この協議過程や国やEUの審査をへる過程において、生産者や製造業者の意識が高まり、品質のさらなる向上やマーケティングへの機運が高まることが指摘されている。
しかし、実はこのような経済的利益をともなう効果だけでなく、農村地域において人々の絆や地域のアイデンティティを育て、農村地域の活性化に結び付ける効果も評価されている。究極の目的は、地理的表示の保護自体というよりも、そのための活動を通じた人々の「能力開発」(Empowerment)の方にあるのかもしれない。
さて、日本にEU型の地理的表示制度は導入されるのか。日本の過疎地域においても人々の「能力開発」につながるような制度作りを期待しながら、今後の有識者による研究会や法案審議の過程を見守りたい。
1980年横浜生まれ。2011年京都大学大学院経済研究科博士課程修了。経済学博士。2011年より現職。専門は農業経済学。フランス国立農学研究所への留学中(2007~2010年)に、ヨーロッパの農産物・食品の地理的表示制度について学ぶ。