九州大学大学院
教授 鈴 木 宣 弘
何とか踏みとどまったWTO交渉
2004年7月末に成立したWTO(世界貿易機関)交渉のドーハ・ラウンドの枠組み合意は、文字通り「枠組み」合意であり、具体的な数値交渉は今後に委ねられているし、対立点の多くを「玉虫色」にして先送りしている。しかし、交渉が完全に暗礁に乗り上げるのを何とか回避した意義は大きい。
特定国にのみ有利な条件を約束するFTA(自由貿易協定)が急速に増加する中、世界的な無差別原則に基づくWTO交渉が完全に暗礁に乗り上げ、FTAによる差別待遇の錯そうが無秩序に広がることは、国際通商秩序を維持する上で、非常に危険だからである。
また、今回の枠組み合意にはあいまいな点が多いとはいえ、農業分野においては、(1)市場アクセス、(2)輸出補助金、(3)国内支持の各分野について、前回のUR(ウルグアイ・ラウンド)合意とは異なる方向性が、はっきりと打ち出されている。ポイントは、(1)高関税品目グループほど削減率を高める階層方式を採用するが、各国が指定するセンシティブ品目を一定程度除外できる、(2)輸出信用、食料援助、輸出国家貿易などあらゆる形態の輸出補助金を期日を設けて全廃する、(3)貿易わい曲度の高い国内支持が多い国ほど削減率を高める階層方式を採用し、品目ごとの国内支持の上限を設定するといった点である。
階層方式とセンシティブ品目の除外
まず、市場アクセスについては、品目をグループ分けして、高関税の品目ほど関税削減率を高くする階層方式の採用が合意されたが、これは、全体で36%、品目によっては最低15%の削減とし、高関税品目に低い削減率が適用される結果になったUR合意とは逆方向になっている。アメリカの主張してきたleveling
the playing fields(競争条件の平準化)に沿うものである。ただし、代償措置(低関税枠の拡大など)の問題は残るものの、各国がセンシティブ品目を指定し、階層方式に基づく削減から除外することができることとなった点は画期的である。
アメリカも本当は嬉しいセンシティブ品目の除外
センシティブ品目の除外については、わが国らの主張が反映されたということもできるが、実は、アメリカも内心ホッとしていることも忘れてはならない。ご案内のとおり、アメリカは砂糖、乳製品(の一部)など、豪州とのFTAでもほぼ完全除外したセンシティブ品目を抱えている。オセアニア以外の先進国は乳製品に代表されるセンシティブ品目をそれぞれ抱えており、日本などに「貸し」をつくった形で、実は自らの高関税品目を守ることに成功した点が巧妙である。
カナダは、ケアンズ・グループの一員でありながら、当初から、「UR合意で関税割当を導入した品目については、枠内関税を撤廃することを条件に、枠外の輸入禁止的高関税は維持できる」という提案をしてきた。従って、今回のセンシティブ品目の除外については、内心ではなく、公式に賛意を表明している。そもそも、カナダは、例えば、「本当に酪農の保護削減を望んでいる国は、ニュージーランドとオーストラリアだけだ。交渉の最初の段階は、総論の合意を図るので、例外措置は口に出せないが、ギリギリの最終段階には、カナダの酪農、アメリカの砂糖・酪農、日本のコメのようなセンシティブな品目で、例外措置が取引されることになろう。」(WTO担当P局長)との見通しを示していた。
一方、農業について、ほとんどセンシティブ品目がない輸出国オーストラリアは、各国が牛肉、砂糖、コメ、乳製品等をセンシティブ品目に指定し、保護削減対象から除外してしまう、つまり、センシティブ品目条項がループホール(抜け穴)になることに懸念を表明している。
FTA戦略とも通じるセンシティブ品目除外措置
わが国の農産物関税は平均12%で、コメ、乳製品、肉類、砂糖など一部のセンシティブ品目を除けば、すでにかなり低い。従って、最重要品目の関税削減をできるかぎり小さくすることがWTOにおいてもFTAにおいても、わが国の戦略となってきている。その点では、今回のWTO交渉枠組み合意は、わが国にとって、ひとまず望ましい結果であり、現在進行中の東アジア各国とのFTA交渉でのセンシティブ品目除外の根拠を補強するものにもなる。
代償措置の問題-カナダとも連携
しかし、これはあくまで枠組み合意であり、今後の具体的な数値交渉で、いろいろな曲折がありうる。まず、センシティブ品目にどれだけの品目を入れることができるかも不透明であるし、さらに、高関税を維持する場合の代償として低関税での輸入の義務的拡大を迫られる可能性には強い懸念がある。義務的拡大を認めては、かえって不必要な輸入を強いられ、代償が大き過ぎる。枠拡大を最小限に抑えるとともに、低関税枠は、あくまで機会の提供であって、最低輸入義務枠ではない、つまり実際の輸入が枠を下回ることはありうる、という理解をすべきである。
カナダは、酪農、卵、鶏肉など供給管理政策を行っている品目について、枠内税率の撤廃には応じても、枠の拡大と枠外(二次)税率の削減には応じない姿勢を示しているので、わが国は、センシティブ品目の代償措置の問題については、カナダとの連携もありうる。
上限関税の問題
なお、先送りされた「上限関税」の設定問題と関連するが、例外品目の関税が500%や1000%でも無制限に高くてもよい、ということが認められる可能性は高いとは言えない。いくつかの農産物輸出国について、世界的に最もセンシティブな品目である乳製品についてみてみると、おおよそ、カナダのバター300%、脱脂粉乳200%、EUのバター200%、アメリカのバター120%、脱脂粉乳100%、タイの脱脂粉乳220%、という具合である。諸外国の関税水準をみると、カナダには300%近い関税の品目がほかにもあることから、上限関税が設定されたとしても、200~300%の水準になる可能性はある。このように考えると、非常に大きな代償を強いられても上限関税の設定自体を拒否し続けるのか、上限関税の設定は受け入れて、その水準をできるかぎり高く維持できるよう交渉する方が得策なのか、検討の余地がある。
なお、関税の簡素化も今後の交渉事項として残されており、複合税、差額関税、スライド関税などの適用品目はもちろん、「抱き合わせ」についても、今後制度変更を迫られる可能性に注意が必要である。
あらゆる形態の輸出補助金の全廃
輸出補助金については、期限は今後の交渉に委ねられたものの、全廃という最も踏み込んだ約束が成立した。ここで、「あらゆる形態の」という修飾語が重要である。EUは輸出補助金に対してこだわったが、それはEUが輸出補助金に大きく依存しているからだけでなく、それらがWTO上「クロ」であるのに、他の輸出国には、「灰色」や「シロ」の輸出補助金が山のようにあるからである。具体的に数字で示すと、EUは明白な輸出補助金を1999年に5,588百万ドル使っているが、アメリカは80百万ドルしか使っていない。しかし、アメリカは、輸出信用を3,929百万ドル(EUは1,254百万ドル)、食料援助を1,210百万ドル(EUは118百万ドル)と多用している。EUは、当初から、WTO交渉提案において、「輸出信用(政府による債務保証)、食料援助、輸出国家貿易企業(輸出独占組織)等、あらゆる形態の実質的輸出補助が削減対象に加えられないかぎり、さらなる輸出補助金の削減交渉には応じない」と主張してきた。EUの輸出補助金だけが減らされて、多くのほかの輸出国は「灰色」や「シロ」の輸出補助金を維持できることが、EUにとって非常に歯がゆいのは当然であった。関税や輸入国貿のマークアップに対する規律に対して、輸出に対する規律が弱いと主張してきたわが国にとっても朗報である。
輸出補助金相当額(ESE)の提案
その点、輸出国家貿易による輸出補助機能も対象となった点も画期的であるが、これを約束事項として具体化するためには、輸出国家貿易による輸出補助機能を計量する統一的で実用的な手法が必要である。輸出国家貿易による隠れた輸出補助金は、WTO上「クロ」の輸出補助金が生産者価格と輸出価格との差を財政(納税者)が負担するのに対して、国内価格あるいは一部の輸出先の価格を高く設定することによって、消費者への隠れた課税を輸出補助金の原資としているものである。これは、納税者負担か消費者負担かの違いだけで、経済学的には、同等の輸出補助金として定義できるが、現行WTO上は、消費者負担の場合は、「灰色」または「シロ」であった。
このタイプの輸出補助金は、カナダだけでなく、ニュージーランド、オーストラリアでも使われている。アメリカの牛乳における差別価格制度(FMMO)も同等の性格を有する。これらの消費者負担型輸出補助金は、輸出補助金相当額(ESE=Export
Subsidy Equivalent)という形で、統一的に計量が可能であることを筆者らは示した。例えば、カナダの乳製品3品目に対する国家貿易によるESE総額は8,400万ドルと試算される(注)。こうした提案をわが国が積極的に行うことは、輸出国側へのけん制としても、日本の国際交渉への建設的な参画の一環として重要である。
国内支持にも階層方式
市場アクセスだけでなく、国内支持についても、貿易わい曲度の高い国内支持が多い国ほど削減率を高める階層方式が採用され、かつ品目ごとの上限を設定するというのが今回の枠組み合意である。削減幅を各国一律にしたUR合意から削減後水準の平準化への転換であり、また、品目ごとの上限を設けることで、センシティブ品目の削減を緩やかにするような対応が採りにくくなる。わが国のAMS(削減対象の国内支持総額)は、総額でみても、農業生産額に対する割合でみてもアメリカよりもすでに小さいので、今回合意された階層方式により、特に不利な対応を迫られるわけではないと考えられる。しかし、上限が設定される品目ごとのAMSが、各品目の国内施策にどのように影響してくるかについては、十分な検討が必要であろう。
輸出補助的国内支持の取扱いとAMS過少申告問題
輸出補助金の全廃とも関連して、ひとつ気になるのは、アメリカの穀物などへの輸出補助金的国内政策の取り扱いである。例えば、米国のコメの価格形成システムを、日本のコメ価格水準を使ってイメージしてみると、ローンレート(融資単価)1.2万円/俵、固定支払い3千円/俵、目標価格1.8万円/俵とすると、政府(CCC)にコメ1俵質入れして1.2万円借りて、国際価格水準5千円/俵で売った場合、5千円だけ返済すればよく(マーケテイング・ローンと呼ばれる)、さらに、固定支払い3千円/俵と、目標価格1.8万円/俵と(ローンレート+固定支払い)との差額3千円/俵も支給される(いわゆる「復活不足払い」)。ローンレート制度を使っていない場合は、5千円/俵で売ったら、ローンレートとの差額7千円/俵が支給される。つまり、いずれにしても、国際価格水準5千円と目標価格1.8万円の差額が政策的に補てんされる。全体が大きな輸出補助金ともいえる。しかし、WTO上は、このシステムは、輸出補助金としての削減対象に認定されておらず、国内支持として分類されたため、これまでも緩い削減ですまされてきた。
とりわけ、マーケテイング・ローンは、本来輸出補助金に分類され、今回の合意に従えば、全廃されるべき対象であるが、仮にそういう分類ができなくても、貿易わい曲度の高い国内支持ほど削減幅を大きくする方針の下で、規律強化が可能となるべきであろう。作付面積を数年前の数字にずらすことで形式を整えているだけの「復活不足払い」は、規律強化どころか、その逆に、青の政策として、当面「おとがめ無し」になる可能性がある。また、アメリカの酪農のAMS過少申告問題にみられるように、各国の自己申告に任され、行政価格の取り方等で過少申告が可能な現行のAMS計算・申告方式見直しの議論も必要であろう。こうした点も、今後の交渉で注視していくべきである。
(注)拙著『寡占的フードシステムへの計量的接近』(農林統計協会、2002年)、第8章。