今回報告する調査では、2015年3月から2016年3月にかけて、合計3回にわたり、51件の農家に対面の聞き取り調査を行った。このうち、49件が専業農家、2件が兼業農家である。調査では、主に、被災の程度、避難の履歴、避難中の農外就業、被災後の補助金の利用状況、作付品目の変化、労働力の変化について尋ねた。以下では、特に95%補助事業の利用有無に着目し、それらの特徴について述べる。
(1) 作付品目の変化と補助事業の利用状況
作付品目の変化について、災害前は、51件中26件が葉タバコを主として栽培していたが、災害後にはその数は9件にまで減少し、野菜や花を栽培する施設園芸農家が増加した。畜産農家は主たる経営部門を補完する形で施設での野菜の栽培を導入している。95%補助事業は災害後に主たる経営品目を野菜や花にした場合か、施設園芸を畜産や葉タバコ栽培の補助として導入した場合に利用された(表5)。
春はくさいと小玉すいかの輪作は、被災後に施設園芸を始めた農家の間で最も多く選択された。これは、先述のとおり、95%補助事業の導入時に産地化を目的として栽培が推奨されたためである。他産地と出荷時期をずらして都市圏の市場で有利な販売を目指す春はくさいと小玉すいかの市場戦略は、主に地元の農業協同組合によって構築された。農協は、卸売市場出荷を主とする共販を主導することに加え、農協の雇用労働力を活用した収穫や集荷サービスを提供している(写真)。東京近郊には野菜や果物の産地が多いため、東京で大きなシェアを獲得することは難しく、大阪が主たる販売先となった。2015年の調査時点で、大阪市中央卸売市場では取引される小玉すいかの半数以上が長崎県産となっている。
また、災害発生前と比較して2015年現在では1件当たりの経営規模が拡大していた。家族労働力の数に大きな変化は見られなかったが、雇用労働力によって拡大した農業経営が支えられている。
上記のほかに、一部の農家は、隣人や親戚から、あるいは独学で新しい農業技術を学び、ハウス建設の補助金を利用して作付品目を転換した。作付けされた品目は、例えば、トマト、桃などである。彼らは、春はくさいと小玉すいかの農家よりも遅れて、自宅近くで営農を再開した傾向があった。そのため、彼らがハウスを建設した際の補助率は70%よりも低く、通常は50%程度であった。彼らの帰農が遅れた理由の一つは、自らの土地が「立ち入り禁止」区域に含まれていたため、すでに半島のほかの地域で農業を始めていたことである。この農家グループに特徴的なのは、地元市場や農協以外に独自の市場アクセスを持つことだ。例えば、スーパーマーケットや他県のバイヤー、さらには消費者との直接の取引ができるつながりがあり、彼らの経営は農協を通じた販売戦略から比較的独立している。
また、露地で栽培ができる葉タバコを中心として、雲仙普賢岳の噴火中に地域外で農業を継続するケースが見られた。葉タバコは、灌漑設備などが整備されていなくても露地で栽培できるため、他地域での一時的な作付けが可能であったと考えられる。ただし、施設野菜の栽培で他地域に農地を求めたケースでは、自費での設備の調達・移転が見られ、農業者の負担が大きかった。その後、1998年頃に補助率は下がったが、3戸連担などの条件が緩和されたため、作物の種類や場所を自由に選べるようになり、ハウスを増設して葉タバコ経営にだいこんやにんじんなどを加える農家が増加した。
(2) 被災の程度と補助事業の利用状況の関係
被災の程度と95%補助事業の利用状況の関係を見ると、被害が大きく、住宅や農地が遺失した地域では95%補助事業の利用比率は50%未満にとどまり、降灰のみの比較的被害が小さかった地域で利用比率が高い傾向がみられた(表6)。これは、被災の程度が大きかった地域では、帰農時期や品目選択の都合が条件に合わず95%補助事業の利用ができなかった農家が一定割合いたのに対して、降灰のみの地域では95%補助事業の条件に合わせて作目の転換が進んだことによると考えられる。農地や自宅が遺失したり、農地整備対象区域に入った場合には、事業期間の制限や3戸連担の条件を満たせないなどの理由で半数以上の農家が95%補助事業は利用していなかった。表7によれば、95%補助事業を利用した世帯は、避難期間が短い傾向にあった。
比較的標高が高い千本木地区と、上木場地区では、噴火による被害が大きく、避難が長期化する傾向にあった。また、被災地の多くが砂防ダムや導流堤の中に入ったため、噴火が終息しても災害前の農地や住宅地を利用することはできなかった。これらの地区では、避難期間が長期化したこと、農地の再取得や農外就業の都合から帰農時期が遅れたことから、95%補助事業を利用することは難しく、補助率がやや低い別の種類の補助金を利用するか、補助金なしでの営農再開事例が見られた。その際には、補助金の受給に伴う品目選択の縛りがないため、もともと栽培されていたみかんか、あるいは農家独自の市場調査に基づいた品目選択(しいたけなど)も行われた。また、複数の被災農家が集まって法人化したケースも見られた。
この中には、震災後、農業補助金を全く受け取らずに営農を再開した農家もある。災害前には、標高の高い集落にはみかんや茶が多く栽培されていたが、それらの土地は完全に流され、発災から2023年現在に至るまで「立ち入り禁止」区域となっている。そのため、農業資源をすべて失った人々が農業に戻るのは非常に困難だった。また、1991年から1993年までは噴火が続き、終息の目途がつかなかったため、多くの農家が農業をあきらめて転職した。災害後は建設需要が高かったため、必要な技術を習得して建設会社に就職した農家もいた。
すべてを失った人たちの中には、建築業をはじめとする非農業部門で働いて貯蓄を得た後、新たに農業用の土地を購入した人もいた。農業に戻るまでに最も長い時間(10年から15年)を要し、補助金を受給できなかった人々は、自力で市場へのアクセスを見つける起業家精神を持っていた。一部の農家は、日本全国に有機農産物を販売する出荷団体に加入し、自分たちの農産物をブランド化した。
また、島原・深江農地整備区域のうち、海に近い安徳町は、土石流の被害が深刻で、家屋の2階まで土砂で埋まったため、地区全体が大規模なかさ上げ工事の対象となった。そのため、農地と住宅地の再建に時間がかかり、営農再開時に受けられる補助の種類が限られた。その結果、ほとんどの設備投資などを自費で賄うか、その後の低補助率の補助金によって営農再開する事例が見られた。
(3) 被災地における農外就業の役割
災害発生後に地域外への人口流出を食い止め、営農再開に必要な資本の蓄積を可能にした要因として、地域内における農外就業機会の存在が挙げられる。聞き取り対象農家のうち、37件は、アルバイトや兼業先も含めて避難期間中や被災の直後に農外就業をしていたと回答した
(注3)。就業先の内訳は、復興関連の土木建築業や火山の監視など復興関連事業への従事が15件と最も多かった(平時より兼業先として建築業に従事していた世帯を含む)。そのほか、知人や親戚の紹介などで地元の電話製造会社、食品製造業、販売業などへの従事が見られた。
注3:回答者のうち13件は離農せずに残った土地で農業をするか、新しい場所に土地を借りて営農を続けたため、避難中の農外就業をしていない。
(4) 帰農とライフステージ
被災後、帰農するかどうかの決断は、世帯主の年齢によって異なるライフステージや子どもの状況と密接に関係している。震災後に農業に復帰した農家の多くは、被災した当時40代、50代だった。1990年代から2000年代初頭の日本では年功序列制度が主たる給与算定の基準となっており、40代以降の再就職は難しく、農業と比較して農外就業の方が生涯所得が下がると考えられた。そのため、この年代の農業者は一時的に建設業などに従事しても、機会を捉えて営農を再開した。ただし、避難時に子どもが小さかった世帯では、避難先で就学した結果、転校できないなど子どもの状況によって帰農を諦める、あるいは帰農が遅れたケースも見られる。
一方、被災時に10代や20代の若者は離農するか、学業を終えると農業以外の仕事を探す傾向にあった。1989年から1991年にかけて、日本では都市部での好景気によって、多くの人々が農村部から都市部に移り住み、労働力は農業部門から他の産業部門に移った。雲仙普賢岳の噴火は、この時代の流れと一致し、若者の農業離れを加速させた。その結果、被災地では、災害から約25年が経過した2016年時点で40代の専業農家が少ない傾向にある。しかし、一部には、1990年代後半から2000年代前半にかけての不況を経験した後、再び農業に戻ってきた人たちもいる。島原は、災害後に施設園芸や葉タバコの産地として復興し、2000年代には経営が安定し始めたことによって、若者からみても、都市の景況に左右されない魅力的な就業先であると考えられたためである。