東京農工大学大学院 共生科学技術研究院
助教授 野見山 敏雄
1.はじめに
総合スーパーマーケット全体の売上高が漸減する中で、イオンの拡大が止まらない。経営不振の企業を次々に買収または資本参加することで、グループ全体の売上高は4.4兆円(06年2月期)に拡大し、業界トップに躍り出た。イオンは800~1000坪の新店舗を毎年20店以上開店させているが、生鮮農産物とりわけ野菜の生産・流通・販売においてGAPにいち早く取り組んでいる。
GAPとは、Good Agricultural Practiceの略称である。日本では適正農業規範と訳されている。農林水産省は食品安全、環境保全、労働安全、品質向上など様々な目的に適合させるために食品安全GAPを推進している。ただし、農業生産の方法は、作物や気象などの条件によって異なるので、GAPの項目や内容は一律に決めるものではなく様々な条件を考慮して取り組むことが基本だとしている。農林水産省のホームページによればGAPの手順は次のとおりである注)。
(1) 目的に応じた適切な生産方法を決め、リストアップする。
(2) リストを確認しながら、適切な生産方法で作業を実施する。
(3) その都度、適切に実施できたかどうかを記録する。
(4) 適切に実施できなかった原因を検討する。
(5) 次の作業や次期作に向けて、実施内容や方法を見直す。
そして、(1)~(5)の活動を繰り返す。
つまりGAPとは、農業生産における危害対策や管理方法を取りまとめたもので、要はきちんとした農業生産を行おうという規準である。ヨーロッパでは、流通業者などが自主的にEUREPGAP(欧州小売業組合GAP)を作成しており、食品の安全に加え、品質保証、環境保全、労働安全・福祉も目的として、登録を受けた認証機関が生産者や生産者グループを認証する認証制度も取り入れている。これによる認証件数は増加傾向にあり、3万5千件に達しているという注)。
本稿では、イオンと取引がある仲卸業者及び野菜生産法人に対する聞き取り調査を行い、GAP導入の契機と効果及び今後の課題について明らかにする。なお、調査対象としてイオン本社に対する聞き取りから国内で最もGAPへの取り組みが進んでいる九州地域を統括する仲卸業者ナックスとその契約産地を選定した。
2.GAPを推進する(株)ナックスの機能
1)事業概要
ナックスは福岡市博多区に事務所を構える仲卸業者で、設立は1985年である。当初は「無農薬野菜を食べる会」を運営し、会員に農産物や農産加工品を宅配する有機農産物専門流通事業体であり、1985年10月には約800世帯に配達していた。1993年10月に九州ジャスコ(現イオン九州)と青果物の取引を開始し、以後、野菜の宅配事業は縮小し現在は200世帯弱になっている。2001年にはイオン本社と栽培委託契約を締結し、昨年度の売上高は7億円(うち7,000万円が青果物の宅配事業)である。毎年1億円のペースで売上高が増大している。
ナックスはイオン本社とトップバリュやグリーンアイというプライベートブランド(PB)商品の栽培委託契約を行い、生産者産地とは再委託契約を結んでいる。現在、イオン九州(35店)、マックスバリュ(80店)、マイカル九州(8店)、琉球ジャスコ(3店)、香港ジャスコ(7店)に出荷している。トレーサビリティーの仕組み上、関門海峡以南のイオングループに出荷する青果物はすべて検品のためにナックスを経由しなければならない。そのため、イオン九州PB青果物の95%をナックスが取り扱っている。
ところで、ナックスのようにイオンのPB商品の集荷を行う企業はイオンの取引規準APSS(Aeon Product Supplier's Standard、イオン取引先規準)のAGDP
(Aeon Good Delivery Practice、イオン適正流通規範)をクリアしなければならない。また、ナックスと取引する産地はイオンが定めたGAPを順守する必要がある。そして、ルールをきちんと守っているかについて年1回の監査を受けなければならない。APSSの規範項目は次のとおりである。
2)生産・流通情報の電子化
イオンとの価格交渉における売値は消費税込みである。また、GAPを実施するためには、相当のコストが発生する。そこで、ナックスはコスト削減のために事務作業のIT化を推進している。具体的には受発注伝票やトレーサビリティーシステムを電子化している。従来の紙媒体による記帳では、チェックするのに時間もかかるし記帳費用もかさむ。そこで、大日本印刷が開発した青果物簡易記帳システムを再委託契約生産者とともに導入した。生産者の年間利用料は1万2千円である。導入の契機になったのは、農林水産省の補助事業である。2004年度トレーサビリティーシステム開発事業、2005年度ユビキタス食の安全・安心システム開発実証事業の補助を受けて実証試験を行った。特に、PHSが組み込まれたアクティブICタグの利用価値を高く評価し、今も継続利用している。アクティブICタグには温度センサーとPHSが組み込まれており、10分おきの温度と位置情報が分かるようになっている。今後、受発注や出荷伝票の情報もリンクできるようにシステムを改良する予定だという。
現在ナックスと再委託契約を結ぶ生産者の7割は携帯やパソコンで生産履歴を記帳しており、残りは紙媒体となっている。今のシステムではトレースバックが可能であり、販売店で不良品やクレームが発生した場合、画面上でいつ、誰が、どこに出荷したものか瞬時に分かるようになっている。そのため、クレームの原因を他人に転嫁することはできない。今後、生産者が日々の作業内容を入力して、ラフな原価計算もできるなど、記帳が生産活動にフィードバックできるようにしたいという。現行システムは、2005年11月から開始してまだ1年数箇月が経過した段階であるが、将来的にこのような栽培データを可視化するシステムとトレーサビリティーが結合でき、かつ事務作業コストが低減できるならば理想的なシステムになろう。
3)GAPの導入と効果
ナックスが再委託契約を結ぶ産地には、まずGAPを実施する組織を結成するように指導する。そして、次に内部監査を年1回行うように指示する。その後、ナックスによる2次監査、第3者認証機関による外部監査とより厳格な監査を行う。このように段階を踏むのは、イオンのGAPは82項目からなり、いきなり高度な内容を生産者に要求しても実現が困難だからである。キックオフから2~3年の経験を積みながら最終的なGAPを目指すのが、回り道のようだが、結果として早道になるという。なお、ナックスは生産者のすべてのほ場を踏査し、周辺からの農薬飛散についても確認した後、日常的なGAPの確認方法として青果物簡易記帳システムを生産者に課している。イオンのGAPは、要求水準はやや高いが、いざ取り組めば取引方針が一貫していることがナックスと産地に高く評価されている。
3.施設野菜生産の事例-朝倉物産(株)-
1)法人の概要
朝倉物産は福岡県朝倉市に事務所兼作業場を構える。2005年度の売上高は6,800万円である。会社の構成は役員4名、正社員2名、パート9名である。創業は1955年で代表取締役である花田信一さんの父親が朝倉地域で最初に小ねぎ栽培を始めた。後に万能ねぎという登録商標を付けた小ねぎである。当初は福岡市中央卸売市場に個人出荷していたが、生産者も次第に増え農協共販になり、東京に空輸されるまでになった。1984年、花田さんが30歳の時に父が病気になったため、サラリーマンを辞めて就農する。そして、農協のねぎ部会が天皇賞を受賞した翌年の1986年に法人化し、農協共販から離脱した。その理由は、個別農家の販売金額が部会全体のプール計算になっていて、日々出荷したねぎの単価や経費が不明瞭だったことだという。
朝倉物産のねぎの作付面積は2.1haであり、うち60aが自作地である。小ねぎの栽培には、堆肥や有機質肥料を使用し化学肥料を一切使用せず、農薬も慣行栽培の3割減を実現している。
2002年に国補事業を単独で利用して調製作業を機械化し、省力化に成功した。以前からのつながりによる近隣の農家からの仕入れが5%あるが、それ以外はすべて自社の生産物である。出荷先はイオン九州が25%、業務用が35%、九州管内のデパート及び関東・関西の高級店が20%、売り先が特定していない卸売市場出荷が20%である。この卸売市場出荷が販売の安全弁となっているとのこと。今後、イオン九州への出荷は増加し、今の取引の1.5~1.6倍に伸びる見込みだという。
2)GAP導入の契機と効果
2002年にイオン九州と契約した際にはGAPの導入が前提というわけではなかった。最初、ナックスの総括部長である田中勝美さんがGAPの話を持ってきた時は、「何と面倒なこと」と思ったそうだ。しかし、田中さんと相談しながらGAPに取り組むことで経営は大きく変化した。GAPの本質は生産や加工の段階毎に記録を残すことである。記録を付けることによって、何のためにその作業を行っているかの意義が従業員全てに分かるようになる。今ではGAPをめぐって社長の花田さんが従業員から逆に指導される場面もあるという。また、GAPの導入とともに調製作業の生産性を数値化し情報を共有化している。そしてその成果は年2回の勤務評価とボーナスにより従業員にも分配される。花田さんによれば、GAPを実践することで作業の工程管理がきちんとなされ、経営は黒字になったという。
4.露地野菜生産の事例-(有)松本農園-
1)法人の概要
松本農園は熊本県益城町に事務所を構えている。資本金は800万円、経営耕地面積は36haである。地目別では水田10ha(自作地1ha)、畑地26ha(自作地4ha)で、延べ作付面積は40haになる。2005年度の売上高は1.7億円。内訳は、にんじん(1億円)が主力でほかにだいこん、ごぼう、さといも、ねぎ等露地野菜を栽培、販売している。水稲は4ha(売上300万円)栽培しているが、水田の大部分は野菜への転換畑として利用している。化学肥料は極力使用していないが、一部地力が低い借地には使用している。有機質肥料としては米ぬか200kg、発酵鶏糞400kgを毎作毎に散布している。農薬は使用する農薬をあらかじめ決めておいて、病害虫の発生時には適宜散布する。
松本農園は2001年に法人化した。現在の構成は役員5名、社員12名、パート8名である。社長の松本博美さんが全体の統括、次男の専務が現場担当、次男嫁が事務と出荷担当、三男は取締役で情報管理と渉外活動担当という分担である。出荷はイオン九州にナックスを経由して15~20%、イオン本社にM社を経由して65~70%、熊本、福岡、岡山、名古屋などの卸売市場を経由してイオン以外のスーパーマーケットに10%という割合になっている。イオンとの取引は最初難しい面もあるが、取引後は担当バイヤーが代わっても基準が変わらないという利点があり、長期的に取引できるとのこと。そのためイオンへの出荷割合が増えている。
2)GAP導入の契機と効果
GAP導入の契機は、2002年にナックスから勧められたことである。1999年からトレーサビリティーのシステムを自社で作っていたので、重要な危害管理点は似ていると感じたそうだ。イオンのGAPでは規範項目が増えてくるが、残すべき記録は峻別しなければならない。
導入の成果としては次の点があげられる。第1に、従業員が安全管理が重要なことを意識し、農薬などの取り扱いもきちんと行うようになった。第2に、事務所や倉庫が整理整頓されるようになった。その結果、どこに何があるのかすぐに分かるため、探す時間が減った。第3に、従業員の意識の中に、自らの仕事の延長線上にお客様の姿が見えるようになったとのことである。
GAPでは農薬を正しく使い、使った場合は正しく記録し公表するという仕組みである。農薬の使用は取引先との戦略の一つであり、農薬の使用量や回数で商品訴求をしないという松本農園の方針にGAPの取り組みが束縛するものにはならない。ただし、化学肥料を多投する栽培方法では持続可能な生産ができなくなるので化学肥料の使用は極力減らしており、その結果として農薬の使用量も減らすことができたという。取締役の松本武さんは、「安全はひとつひとつのリスクをつぶしていくことである。」と主張している。
GAP導入時に一番戸惑ったことは、マニュアルの解釈の問題である。例えば、必須項目で「種苗は遺伝子組み換えでないことを確認しているか」というものがある。現場ではいちいち種苗を確認することはできないので、種苗業者に「遺伝子組み換えを売らない」という確認書をとっている。つまり、マニュアルの規範項目について選択できる幅を見いだせることが重要なのである。ただし、その解釈を間違わないようにGAPの内容を正確に理解した担当者が必要である。ナックスの田中さんのような、GAPのマニュアルを分かりやすく説明・解釈できる人、つまりインタープリターの役割は大きいといえる。
松本農園は、2006年3月に全ての野菜品目で生産情報公表JASを取得した。露地野菜農家では第1号の取得である。松本農園は110箇所のほ場を管理しているが、1社の経営でこれだけのほ場を管理するにはその体系をきちんと組み上げなければならない。各ほ場に番号を振り、日付ロットと組み合わせて毎日の作業と出荷を管理している。GAP等のこれまでの取り組みが整っていたことが、生産情報公表JASの取得に繋がったと考えられる。
5.生食用野菜の需要減少と競争激化
近年、生食用野菜の需要量が減少している。「家計調査」のデータから主要野菜6品目の一人当たり購入数量を見てみよう。調査対象の世帯人員は1968年4.05人から2003年3.21人と0.84人減少している。一人当たり購入数量を計算するとにんじんのみ747g増えているが、それ以外の野菜はすべて減少し、6品目計で7.7kg減っている。たまねぎ・にんじん・ばれいしょ3品目計は35年間で2%の減少だが、残りの葉茎菜3品目計は46%と約半分に減少している。これは、外食や中食の比率が上昇し、家庭内食の比率が下がっているためであり、結果として生鮮野菜のホール(丸のまま)の需要量は減少し、国内生産者は小さくなったパイを争奪していることになる。特に、有機農産物や特別栽培農産物の生産者への影響は大きく、卸売市場や小売業も生食用野菜の販売は伸びないため、厳しい競争にさらされることになる。
このような状況を打破し、消費者が生食用野菜を選択するきっかけにGAPが活用できるのではないだろうか。生産者が適切な生産方法を行うとともに消費者や実需者に対して正確な情報伝達を行うことで、厳しい競争に打ち勝つことができると考える。
6.むすび
GAPは危害対策を文書にして記録することで安全性の取り組みを証明できるシステムである。これまで筆者はGAPに関して、厳密な記帳が求められる割には事務作業の増加に見合う生産者メリットはないのではと懐疑的だった。しかし、今回の調査を通じてGAPに関する認識は大きく転換した。GAP実践者のほ場や倉庫は整理整頓ができるようになり、農薬や肥料などの生産資材の場所が誰でもわかるようになった。そして、生産管理がきちんと行えるようになった。また、GAPに取り組むことで売上高が拡大した、など経営上のメリットを次々に述べたことには驚いた。
しかし、生産者や産地がいきなりGAPに取り組むことは困難であることも事実である。前述のように、GAPを推進する上では、ナックスの田中さんのようなインタープリターが不可欠である。マニュアルを生産者に渡すだけなら誰でもできるが、生産上の重要危害点を峻別し、生産者と相談しながらより重要な項目からGAPを進めていく作業が必要だ。そのためにはGAPの内容を熟知するとともに生産者の心も掌握しなければ不可能だ。田中さんはGAPの要を押さえながら推進する伝道者といえよう。
国内では牛肉のBSE事件を契機に食品のトレーサビリティーが急速に進展した。現在のトレーサビリティーのネックは流通段階で小分けしているものについては必ずしもトレースバックできないことである。今後、小袋毎に加工日を印刷するなどしてロット管理を行うようになればほ場から食卓までのトレーサビリティーは完成する。
一方で、消費者は今まで以上に地球の資源や食品の製造過程に関心を寄せるようになり、それがメーカーや生産者に適切な表示をさせることにつながっていると思われる。広く生産者にGAPの重要性が認識されれば、数年以内に普及する可能性がある。イオン本社の食品商品本部の担当者は、「betterやbestは差別化が可能だが、goodは誰でもやるべきこと」と明言していた。今後の生食用野菜をめぐってはGAPが当たり前の規準になるのではないだろうか。
注)農林水産省ホームページ「食品安全のためのGAPに関する情報」より引用
http://www.maff.go.jp/syohi_anzen/gap/index.htm#gap1
APSSの規範項目
目的:安全・安心等品質について経営、組織への反映規範項目
1.企業経営について
2.FS(食品安全)管理体制について
3.PL(製造物責任法)的対応体制について
4.お客様の声の対応体制について
5.全従業員向けFS(食品安全)教育について
6.内部監査マネジメントレビュ体制について
7.商品表示の適正化について
8.下請け・協力企業・購買先管理について
9.PL的問題の対策について
10.文書体系について
出所:イオン・グリーンアイ資料から転載