しおさい農業協同組合 しおさい営農経済センター 次長 安 藤 保
1 産地紹介(波崎町ピーマン)
鹿島地域のピーマンは、昭和24年波崎町須田に導入され、以後鹿島郡南部の三町(鹿島、神栖、波崎)から「鹿島砂丘ピーマン」または、「鹿島ピーマン」として出荷されるようになりました。
一方、土地条件も鹿島砂丘と称されるように砂土が大半を占め、気象条件も東に太平洋、西に常陸利根川を抱えた温暖な海洋性気候に恵まれた地域でもありピーマン栽培には最適の地域であったことも一大産地として成長した理由の一つと言えます。
波崎町の農業は、古くは米、麦、落花生、スイカ、千両、などが作られていましたが、その後葉タバコが盛んになりました。昭和40年頃から鹿島開発による農業対策事業の推進により土地提供後の小面積でも農業経営の維持できる生産性の高い施設園芸へと変遷しました。
ピーマン栽培の由来については、その歴史は、太平洋戦争後が終わって間もない昭和24年頃、進駐軍(米軍)の野菜として、アメリカ産のカルフォルニアワンダーという品種が採入され栽培されたのが発端といわれています。
ピーマン栽培の始まりは、終戦後の混乱期に当時の進駐軍の食用野菜として厳しい検査の下に、この地の精農家にその栽培生産を奨励されたことに始まり、生産技術、販売に苦労を重ね、市場や種苗会社等の人達の指導のもとに始まりました。
当時としてはピーマンは高級野菜として取扱われ、庶民にとっては手のとどかないものであましたが、昭和35、6年頃になると日本の食生活も洋風化になり、ピーマンが全国で一般的に食べるようになりました。これに伴い消費が大きく伸びるようになり、進駐軍(米軍)から一般庶民へと変わり始めました。
また、生産技術も農業機械、農薬、農業資材の普及と共に、鹿島開発に伴う農業振興対策は、ビニールの農業利用に始まって大きな変革を経て、ビニールハウスなど施設整備がなされ、農業普及員等を中心とした指導により、ピーマン栽培を主とした農業経営の近代化が始まりました。
(1)ビニールの農業利用
昭和30年代…ビニールトンネル栽培に始まりビニールハウス栽培に移行。
昭和40年代…小型パイプハウス栽培から大型ハウス栽培の急増。
昭和50年代以後は大型ハウス内の二重・三重のトンネル利用が普及し現在に及ぶ。
(2)暖房機の出現
昭和38年…温風暖房機導入
昭和40年…地中暖房機導入
(3)肥培管理
昭和35年頃…単肥から高度化成肥料利用へ移行
昭和40年頃…液肥の利用
昭和43年頃…だん効性肥料の利用
昭和47年頃…(1)「エース」から「土佐グリーン」となり主枝誘引栽培の導入
(2)切りわら施用とたか畦栽培の普及
昭和52年頃…有機質肥料の利用へ移行
平成2年 …PSP苗の導入
平成3年 …新品種「神波」発表
平成7年 …ブロック苗「ドリーム苗」導入
(4)病害虫対策
昭和35年頃…青枯れ病対策、タバコガ対策
昭和44年頃…立枯れ性疫病対策
昭和49年頃…ウイルス病対策(TSWV、TMVP、CMVなど)
昭和56年頃…斑点病対策
平成10年 …タバコガ対策にフェロモントラップの導入
平成13年 …天敵農薬(オリスターA)導入
組織
昭和42年に「波崎町青果物共販連合会」として設立され町内23組合、250名、販売高8,900万円よりスタートしました。その後選果、ダンボール統一をすすめ昭和45年に「夏秋ピーマン」野菜指定産地指定を受け、昭和47年に自動包装機を導入し、昭和48年に現在の「波崎町農協青販部会」となり、33支部、350名、販売高8億6千万円となりました。
自動包装機の導入により販売高も急激に伸び、昭和51年には21億円を越え平成5年には、過去最高の38億円までになりました。現在(平成15年)の部会の規模は、32支部、317名、販売高33億円です。
また現在も、個人出荷農家が多く波崎町でも全体で46億円あり、今後系統出荷への取り組みが課題とされています。
ピーマンの販売戦略、安全、安心への取組み等
近年の消費者の健康志向の傾向を踏まえ、全農及び関係機関の指導のもと減農薬・減化学肥料栽培に取組んでいるともに、平成16年1月19日に茨城県知事の「エコファーマー」の認定を全部会員が受け、安全、安心野菜への取組みの責任の重さを再確認しているところです。
また、安全安心野菜の取組みのアピールでもある消費者交流会の開催し、相互の理解をより深めたり、地元および関東近県の小学生、中学生、高校生の農業体験等を企画し、農業への関心を持ってもらえるよう努めています。
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