社団法人JA総合研究所 基礎研究部
主任研究員 柳 京煕
南九州大学 環境園芸学部
准教授 姜 暻求
韓国における農産物流通を「農産物が生産者から最終消費者に至るまでの全ての経済活動」と捉えるならば、1980年代半ばまでの韓国政府の農産物流通政策は、マーケティング政策ではなく、“消費者の多くが集まる都市部へ農産物を運び込み、そこで取引が行われる場所(卸売市場)を提供する”という政策であった。場所提供が政策の主眼であった時期(1982年)の流通経路と、2007年の経路を比較してみると、1982年の青果物の流通は、生産者から生産者団体へ10%、産地流通業者へ55%、卸売市場へ29%、定期市場(5日に一度開かれる市場)へ6%となっている。消費者は、ほとんどの農産物を小売店(96%)で購入していた注1)。
これに対し農水産物流通公社(Korea Agro-Fisheries Trade Corporation)がまとめた2007年の「主要農産物流通実態」で青果物の流通をみると、生産者から生産者団体へ33%、産地流通業者へ16.8%、卸売市場へ11%、加工・貯蔵業者(生産者団体の経営を含む)へ28.5%、直接販売(給食などを含む)が4.5%、量販店へ1.2%となっている。1982年と比べると、生産者団体への出荷が多くなっている。
生産者団体からの流通経路を詳細にみると、卸売市場へ17.7%、量販店へ13.3%、その他2.0%となっている。
わずか25年で青果物の流通経路の主流が、「産地流通業者⇒卸売市場⇒小売店⇒消費者」から、「生産者団体⇒卸売市場⇒小売店⇒消費者」、「生産者団体⇒量販店⇒消費者」、「生産者団体⇒加工・業務用業者」など多様な流通へと変わったのである。
また、経路だけでなく、品質保持や付帯サービスも大幅に改善した。当時の野菜は、ほ場からトラックに積まれて、都市部の市場へ運び込まれるか、または耕運機のトレーラーに乗せられて定期市場に出されていた。果実もりんごやぶどうを木箱に詰めるのが精一杯であった。それが今では、ほ場から出荷施設に集められ、段ボール箱に丁寧に詰められ、保冷により鮮度保持がなされ、整然とした中央卸市場か量販店の仕入れセンターへ送られているのである。
いかにしてこのようなドラスティックな変化が起きたのだろうか。それは農業や流通を取り巻く環境変化に対応するため、政府が主導的に改革を行った結果である。韓国政府は1993~1997年にかけて農業部門の国庫投融資額の6%(1兆5千億ウォン、日本円で約1,125億円)注2)を流通改善に投入した。その多くが青果物流通にかかわるものである。本稿では、戦後から今日までの農産物流通の変遷に焦点を合わせ、特に最も変化の大きかった時期である1990年代を中心に、政策的転換に伴う流通の変化について表に沿って説明をしたい。
農産物の流通に関する制度的な規定は、1914年朝鮮総督府が制定布告した「市場規則」がその始まりである。「市場規則」では、第1号市場の「定期市場」、第2号市場の「公設市場」、第3号市場の「魚菜類および薪炭卸市場」、第4号市場の「穀物および有価証券取引市場」と区分されていた。「市場規則」では、青果物の流通とかかわる第3号市場を“委託された荷物をセリによって売買する所”と規定しており、それには「魚菜卸売市場」と「中央卸売市場」がある。「魚菜卸売市場」は、主に日本の資本によって設置・運営され、徐々に公営化され、既存の商人を取り込むようになった。その結果1938年に「魚菜卸売市場」は、公設22カ所、私設14カ所に達したが、ソウル、釜山(プサン)、仁川(インチョン)などの大都市に拠点を置く多くの委託商人は、この市場に入らず、場外取引を行っていた。一方、中央卸売市場は1935年に釜山中央卸売市場を皮切りに、4年遅れて京城中央卸売市場が開設された注3)。
その後、1948年の政府樹立(大韓民国)以後の青果物流通は、新たに「中央卸売市場法(以下、「卸売法」と称す)」を制定・公布した。
この法律の主な内容は、
①開設者は、地方自治体に限る
②地方自治体の長(市長や知事)は、公益上ふさわしい法人に業務を委託する
③商工部長官が開設地域を指定する
④1都市1市場を原則とする
としていた。しかし、「卸売法」で許可していない私設市場が並存したため、法定卸売市場の機能は弱かったと言える。また、1961年に農業協同組合と水産業協同組合の販売機構である「共販場」が卸売市場の場内でも設置できるようになり、青果物卸売機能は、法定卸売市場、私設卸売市場、農協共販場に分かれた。
一方、一般市場に関する法律は、従来の「市場規則」を習慣的に適用してきたが、1961年「市場法(法律第704号)」が制定・布告された。
「市場法」では、市場を一定の規模を備えた第1号市場(常設市場)、定期的に開かれる第2号市場(定期市場)、20人以上の同業者が同じ建物の中で売買する第3号市場に分けて、管理することとした注4)。
高度成長期が始まる1961年以後、政府の工業化による経済発展優先政策によって、農業と工業間の所得格差が広がる中、度重なる農産物価格の乱高下に見舞われ、緊急な対策に迫られた。そこで政府は、1966年に「農産物価格安定基金法(以下、「基金法」と称す)」を制定し、農産物の価格安定を図る一方、「基金法」では、農産物の価格および出荷調整、加工・貯蔵に必要な基金を助成・運用することを規定し、貯蔵性のある果実やにんにく、たまねぎなどが対象品目となった。
また、政府は1970年から農協を通じて出荷調整を図るようになった。当初は、備蓄事業としてにんにく、乾燥とうがらし、たまねぎなどの野菜とりんごが対象品目であった。しかし、当該制度は、価格下落を防ぐというより、価格の高騰に備えるための措置であったため、結局効果を十分上げることができず、輸入による備蓄事業に性格が徐々に変わっていった。その後、1974年から農協が自ら行う貯蔵性の乏しいだいこん、はくさいなどを対象とした出荷調整も実施されるようになった。当時は、価格安定が何よりも重要な政策対象であったと言えよう。他方、農民の所得向上のために「農漁民所得増大特別事業(以下、「農特事業」と称す)」を実施した。その「農特事業」において、野菜と果樹の多くの作物が団地化助成の対象品目となり、園芸部門の基盤が拡充される契機となった。
しかし、このような取り組みにもかかわらず、この時期は、国民所得増加による消費拡大と農家所得増加を目的とした園芸部門生産基盤の整備事業により、青果物の供給力が拡充されたことから、時折の豊・凶作によって需給のアンバランスが生じ、価格が大きく揺れた。事態を重くみた政府は、「卸売市場法」と「基金法」を統廃合し、「農水産物流通および価格安定に関する法律(以下、「農安法」と称す)」を制定するに至った。
「卸売市場法」が制定・改正したにもかかわらず、機能しなかった理由はいくつか指摘できるが、政策上の一番の問題点としては、“1都市1市場”という原則が、都市の拡大に伴って現実とのずれが生じたことが大きな理由であった。さらに、同法と「基金法」との相互連携がうまく取れていなかったことが指摘された。そこで「農安法」は、
①卸売市場の1都市1市場制の廃止
②卸売市場における非現実的な強制上場制の廃止
③出荷調整の実施
④価格安定基金の拡充・運用
⑤流通基盤の整備
について改正が行われた。
同法では、私設市場をこの法律の適用外とし、農林部長官が私設市場を監督・指導する体制を整えた。
その結果1981年には、「法定卸売市場」が60カ所(そのうち、青果物36カ所)、「共販場」が88カ所(そのうち、農協共販場79カ所)、青果物私設市場が59カ所、そのほかの卸売市場が20カ所の合計227卸売市場に増加した注5)。しかし大部分の法定卸売市場では、荷主と仲買人が相対取引し、ごく一部のみがセリによって取引されたため、公正な価格形成機能が発揮できないうえ、手数料も高く設定されていた。また、地方自治体においては、予算や認識不足のため、公的資金より民間の資金に頼って市場を開設することが一般的になっていたことから、代表的な私設市場であるソウルのヨンサン市場は、狭い敷地に駐車場や道路整備が完備されておらず、入り口から市場内へアクセスするのに2~3時間もかかる実態を招いた注6)。つまり、「農安法」の制定・実施にもかかわらず、卸売市場は、公正な価格形成の機能が発揮されなかったのである。
そのため、当時の流通政策の目標である“流通施設の拡充と卸売市場の制度整備による物流の円滑化と公正な価格形成”のモデル事業としてソウルの可楽洞(カラクドン)中央卸売市場が計画された。可楽洞市場は、ソウル市と政府が786億ウォン(日本円で約58億9,500万円)を投資し、1982~1984年にかけて建設され、その後ヨンサン市場の商人との協議を経て、1年後の1985年に開場にこぎつけた。
以降、可楽洞市場と同様に政府と自治体の共同投資による「公設卸売市場」が、大都市と中都市に開設された。その結果、公設卸売市場は流通改革の初期(1994年)まで10カ所(1カ所当たり平均:敷地面積114.9千平方メートル(以下、「m2」と記載)、建物面積45.5千m2、セリ場面積17.8千m2、駐車場24.4千m2)に増加した。これによって青果物流通量の890.9万トンのうち、私設市場が55%、法定市場が45%(公設市場44.3)になり、大規模卸売法人(年間取扱高1,000億ウォン以上、日本円で約75億円)は、全て公設市場に所在するようになった。商人を市場の中に取り込むことによって一定の効果、すなわち物流(集配機能)は改善された。しかし、取引方式は、依然として従来のまま相対取引が主流であった。
前節でみたように韓国の農産物流通政策は、実質的に1980年代半ばから始まったといっても過言ではない。しかし、それは、取引の場(卸売市場)の整備にとどまっていたと言える。
取引方式やサービスなどを含む画期的な転機は、1991年の「農産物流通構造改善対策」、1994年の「農産物流通改革対策」、1997年の「農産物流通改革委員会対策」まで待たなければならなかった。
1980年代終わりごろの市場開放圧力は、サービス分野の流通市場の開放にまで広がった。そこで政府は、1988年の「卸・小売市場振興5カ年計画」の中で“流通市場3段階開放計画”を打ち出した。この計画は、本格的な流通サービスの開放の前に、流通技術を先進国から導入し、国内流通業者が競争力を備えるための措置であった。国の計画としては、まず卸売業への外資導入を認めた後に、漸進的に小売業を開放する方向で調整が図られた。
その後、1992年のウルグアイ・ラウンド妥結で78のサービス業種を自由化することになり、そのうち流通部門は、仲介業、卸売業、小売業、フランチャイズ(franchise)の4業種であった。幸いにこれらの自由化は、「卸・小売市場振興5カ年計画」の想定範囲内であったため、影響は小さかった注7)。
しかし流通サービスの開放は、外資の国内小売業への進出をもたらした。外資は、直接投資、合作投資、技術提供の形で参入し、国内企業も独自に参入してきた。主な業態はディスカウント・ストアー(discount department store、ウォールマート)、ハイパーマーケット(hyper market、ダイエー)、スーパーセンター(supercenter、JUSCO)であるが、いずれの業態も食料品を集客用の戦略的商品として位置づけ、また販売額に占める割合も高いのが特徴であった。したがって、食品小売への大規模量販店の参入は、必然的に農産物流通構造に大きな変化をもたらすと予想されていた。
流通サービスの自由化が始まる中で、農産物流通の問題点は依然として
①産地流通の基盤が弱く、産地商人に頼っている
②公設卸売市場が不足していてセリ取引が定着していない
③流通段階が複雑でマージン率(特に小売のマージン率)が高い
ことなどであった。
政府は、その対策として、1991年に「農産物流通構造改善対策」を打ち出し、“パッキング・ハウス(packinghouse)概念を用いた生産物の付加価値の向上”を構想した。米は米穀総合処理場(Rice Processing Center:RPC)、畜産物は畜産物総合処理場(Livestock Processing Center)、野菜・果実は農産物総合物流センター(Agricultural Products Packing Complex:以下、「APC」と称す)で選別・包装、加工して出荷することを立案した。また、公正な取引を定着させるために、同年7月から可楽洞市場を含む6つの市場で、果実類、果菜類、包装された野菜をセリ方式で売買することを決めた。
また、1994年の「農産物流通改革対策」の発端は“農安法騒ぎ”にある。1993年に一部国会議員が“仲買人の高いマージン率が、農産物価格に反映され、消費者と生産者に悪影響を及ぼしている”として、既存の法律で認められていた“仲買人の仲介業と卸売業の兼業”を“仲買人は卸売業を禁止し、違反者は罰する”と改正された。こうして改正「農安法」は1994年5月2日に適用されたが、仲買人達はセリには参加したものの、買い注文を出さなかったため、価格が前日より60%~80%ほど暴落し、出荷生産者のデモが起きたのである。この騒ぎで国民は農産物流通の遅れを知り、画期的な改善を望むコンセンサスが形成された。
政府は、「流通改革企画チーム」を立ち上げ、日本や台湾の実地調査と欧米の資料を検討し、流通改革案を打ち出した。それによると改革の方向は
①品目別に生産者組織を育成し、生産者が自ら高い付加価値を追求する
②公正な取引の定着と物流の円滑化を図る
③多様な流通経路を作り、出荷の選択幅を広げる
④流通情報を生産者に適切に提供し、生産者の市場における価格交渉力を高める
といった計画案を打ち出し、農安法は再改正され1994年11月1日に公布された。
その後、1997年の「農産物流通改革委員会対策」では、依然として産地の流通整備が遅いことや、大型量販店の急増と消費の高級化が進んでいることを踏まえて、前回の対策を補完することとした。以下では、流通改革のうち青果物流通に焦点を合わせ、産地流通、規格包装、卸売流通について項目ごとに見てみる。
(1) 産地流通の改善
当時の産地流通の基本方針は、“主産地を中心に品目別に生産者を組織し、共同出荷の基盤を確立する”ことであった。その生産者組織とは、農協、営農法人、作目班である。作目班とは、日本の生産部会のような生産者組織でありながら、必ずしも農協に属さず、独自に選果・包装出荷を行っているところも存在する。政府は、これも生産者団体として認めており、産地流通改善の支援対象とした。
政府は、選果・包装・貯蔵施設の建設に必要な生産流通資金のみならず、出荷調整資金や規格化および共同出荷先渡し資金、野菜流通活性化資金などの共同選別・包装・出荷に要される多様な資金を支援した。
しかし、当初の総合農協は信用事業がほとんどで、ごく限られた販売事業しか経験していないため、政府の大きな支援にもかかわらず、赤字を出していた。これに比べて当時の園芸専門農協は、信用事業が認められておらず、販売事業を中心に運営されてきたので、販売事業は常に黒字であった。また、施設はあるものの、農産物を集めることができず、稼働していない作目班や営農法人が多数あったことも事実である。このような生産者組織の間にも流通能力に差が生じてきたので、政府は2000年から、流通機能を円滑に担っている組織を選別して、「産地流通専門組織」として指定し、支援の集中化を図った。
産地流通の主役は、APCと「産地流通専門組織」である。APCはパッキング・センターの機能だけでなく、契約栽培やブランド化、情報収集などのマーケティング機能も備えていることが特徴である。政府支援は、集荷・選果・包装・低温保管に必要な建物や機械類はもちろんのこと、運営活性化に必要な資金と包装材料費、ブランド開発経費も支援した。支援は運営主体によって異なるが、自治体が主体である場合、最大で国庫補助が70%である。
生産者団体の場合は、国庫補助が20%、低利融資が40%、自治体補助が20%、自己負担が20%となっている。このような手厚い支援を受けながらAPCは、青果物の産地集荷、パレット(pallet)輸送による物流経費節約、大型量販店との直接取引、独自ブランド形成などの機能のみならず、地元の雇用機会創出の効果ももたらしながら定着した。
「産地流通専門組織」に対する支援は、発展する可能性のある農協と営農法人に流通資金を融通し、規模拡大による大型量販店対応、物流経費節約、商品開発を目標としている。支援の要件は、先進的な作目班を有すること、パレット出荷していること、広域農協または広域組織に参加していることなどである。支援金は国庫補助が80%であるが、共同出荷にかかる諸経費が補助対象であり、事後的に成果の評価を受けることとなっている。成果によっては、さらに奨励金をもらうこともできるが、もし問題が発生した場合、支援金の返還措置が課される厳しい制度である。
(2) 物流標準化および規格包装
韓国の青果物の公正な流通を阻害した大きな理由は、農産物の出荷や販売にかかわる物流の諸規格が、それぞれの出荷主体ごとに異なり、商品そのものも規格に沿って分けられず、包装率も極めて低かったことであった。特に消費量の多いはくさいやだいこんは食べない部分まで出荷し、輸送コストのみならず、都市部にごみ処理コストや排気ガス問題、交通の混雑など、流通以外の社会的問題を引き起こしていた。
したがって政府は、物流の標準化を推し進めることとなり、規格、施設・装備、情報に係る標準化が一括して進められた。産地流通改善で定着しつつある包装単位は、規格標準化に基づいて、それに付随する運搬・輸送機械および保管施設の標準化も同時に行われ、併せて商品コードや取り扱い機関コードを構築し、総合的な物流情報ネット機能の整備も行われた。
規格包装の始まりは、1983年の「農産物標準取引単位」の制定にさかのぼるが、1991年の卸売市場におけるセリ取引、1994年の品質認証制度によって徐々に定着していった。
政府はこの時期から、生産者組織が公設卸売市場へ出荷する農産物に使用するダンボールを支援する一方、物流標準化については、農協や営農法人、作目班のような産地流通関係者だけでなく、公設卸売市場や「農産物総合物流センター(以下、「物流センター」と称す)」などの都市部の流通関係者に対しても、パレットやフォークリフトの購入費、施設改修に必要な経費の80%を低利融資するなどの支援を行うようになった。
(3) 卸売流通の整備
1990年代においても卸売流通は、基本的に「農安法」を軸としながら、大都市および中核都市に公設卸売市場を建設し、セリ取引の強化と電子セリの導入、出荷者の費用を軽減する標準荷役費制度の導入、出荷者の登録制、等級表示および検査などの改善が行われた注8)。
また、卸売機能と異なる青果物の集配機能を持つ施設として「物流センター」があるが、同センターは、生産者の出荷先の多様化を図るために、施設ごとに建設費用の70%を国が補助する1998年の流通改革対策により施設の整備を進めた。同センターは、集配センターのような機能を持っているが、必ずしもそれとは限らない。現在15カ所ある物流センターには、APCのような機能を持つ産地立地型、卸・小売の機能を持つ消費地立地型、これら両方を備えた産地・消費地混合型がある。設立・運営の主体は、農業協同組合、自治体、自治体と農業協同組合のコンソーシアム(consortium、連合体)であるが、そのうち最も多いのは農協の子会社である。
韓国の青果物流通は、1990年代から現在に至る10年間に驚くほどの発展を遂げている。もちろんソウル・オリンピック以後、社会・経済自体が大きく変わったことが背景にあるが、筆者の目にはその変わり度合いが、ほかの社会変化より激しく、また大きな変化として映る。
本稿では、なるべく青果物流通に限定しながら農産物流通の変遷過程を政策中心に概観した。戦後の慢性的食糧不足のため、農政はもっぱら食糧の増産に偏り、流通への関心は疎かであった。
ようやく1976年になって自前の農産物流通に関する法律ができ、流通政策は卸売市場を中心に展開する。1985年に中央卸売市場として可楽洞市場を開場したことを皮切りに、卸売市場は、地方の中核都市へと拡大していった。この時、すでに青果物は、流通量や取引金額の面において農産物流通の中心にあったといえる。
1980年代終わりごろの経済発展とグローバル化が、農産物市場および流通サービス市場の自由化をもたらした。韓国政府は、ウルグアイ・ラウンドの前に流通サービス市場の開放を決め、その対策を進めることとなったが、対策の中心にあったのは、産地流通改善である。それは、生産者団体に共同選別・規格包装を進め、できる限り流通コストを節減することを目的としていた。
政府は、国民のコンセンサスを後ろ盾に巨額の政策資金を、産地流通の改善、卸売市場の整備、物流センターの開設、物流標準化の推進へ注ぎ込んだ。その結果、本稿で述べたような大きな変化をもたらした。もちろん、すべての問題が解決したとはいえない。しかし果敢に挑む韓国の農業政策は、閉塞感の漂う農業生産者に、やればできるという一抹の光を与えたことは確かである。
1)スン・ベヨン『農水産商品市場分析』韓国農村経済研究院、1985年10月、36項から引用。2007年の流通経路については韓国農水産物流通公社「流通実態調査」2008年を参照。
2)本稿における韓国ウォンの日本円への換算については、過去の為替レートにかかわらず、便宜上2009年9月時点の1,000韓国ウォン=75円で計算した。
3)ャン・サンファン「第3章農業生産・流通および糧穀政策、米国農産物援助」韓国農業近現代史第3巻、韓国農村振興庁、2008年。
4)キム・ジョンブ「第8章農産物価格・流通および貿易政策」韓国農業近現代史第3巻、韓国農村振興庁、2008年。
5)法定卸売市場とは、農安法で定めてある卸売市場であり、地方自治体が開設し、卸市場法人が管理する「一般法定卸売市場」、地方自治体が開設・管理する「公営卸売市場」、農協・水協が開設・管理する「共販場」を指す。また、類似卸売市場は自然発生的に形成された市場であり、卸小売業振興法が適用される。
6)クォン・ウォンダル「第23章農産物市場および流通政策」韓国農政50年史、農林部、1999年、1935項より引用。
7)卸売市場の開設と運営は例外的に自由化していない。
8)電子セリ導入の全額を国庫から補助した。