農林水産省 農林水産政策研究所 高橋 克也
イタリアの豊かな食文化は、豊かな地域農産物の存在によって支えられているといえよう。しかし、グローバリゼーションの流れは着実に押し寄せており、イタリアにおいてもこれまであった伝統的な地域農産物は徐々に姿を消しつつあるのが現状である。このような中でスローフード協会注)では生産者による農産物直売の支援活動を通じて、地域農産物の保護や育成を通じた食文化の保護・継承に取り組んでいる。以下では、スローフード協会による直売支援活動である「大地のマーケット・プロジェクト」(Mercati della Terra)を紹介しながら、イタリアにおけるスローフードと直売の関係とその実態について触れてみたい。
注)「スローフード」とは、イタリアのブラ(Bra)という小さな町からスタートした、多忙な現代人の食生活を見直す運動で、単にファストフードの対極の言葉としてだけではなく、はじめにイタリアの食品小売の現状について概説しておきたい。イタリアの食品小売の特徴の一つとして、零細な多数の小売店で占められることが指摘できる(表)。しかし、この中でも大規模化は着実に進んでおり、業態別にはスーパーマーケットや大規模量販店がおよそ6割、広場などでの露天市場や小売専門店といった伝統的小売店がそれぞれ2割程度を占めているというのが現地流通関係者の見方である。
その中で伝統的小売店の一つとして、広場などで定期的に開設される露天市場が挙げられる(写真1)。しかし、これらは自治体の許可を得た小売業者によるものであり、生産者による直売という小売形態ではない。また、その仕入先は卸売市場や専門業者からであり、ここでも生産者との直接的な関係はみられない。まれに、生産者による農産物の直売が行われるが、地域の祭りやイベントなどの単発的なものである(写真2)。その点では日本のような豊富な品揃えをした店舗型の直売は、イタリアにおいてはほとんどみられず、生産者の直売とは必ずしも一般的なものではないといえる。
スローフードと直売の関係であるが、なぜ生産者による直売が食文化を守ることにつながるかについて触れておきたい。それは食文化の基礎となる多くの地域農産物が、地域の小規模な生産者によって作られているという理由による。これら農産物の継続的な生産には、それらを購入する消費者の存在が不可欠であり、生産者の経済的自立があってはじめて食文化が守られると考えている。つまり、地域農産物が地域経済やコミュニティ活動の中にしっかりと組み込まれていることが重要であって、大地のマーケット・プロジェクトでは、直売は経済活動という手段を通じた文化・社会活動として位置づけられている。
ここでは生産者自身による販売が原則であり、自分の生産した農産物を自ら価格設定し販売することとしている。これは生産者が消費者と直接対面することによって、その反応や売れ筋が分かること、またほかの生産者の農産物や販売対応についても知ることができるからである。ともすれば地域内にこもりがちな生産者が、直売を通じた消費者や他地域との交流によって広い視野や社会性を持つきっかけとなり、生産者としての自信や自負が得られることの効果も大きいと考えている。このほかにも、スローフード協会では地域農産物の団体購入やアグリツーリズモ(農場経営型宿泊施設)支援、消費者の学習農園などのさまざまな活動やプロジェクトを通じた幅広い生産者支援活動を行っている。
現在イタリアの農業生産や食品流通は、一部の大規模生産者や大企業によって占められており、このままでは食文化の喪失につながりかねないとスローフード協会ではみている。例えば、イタリアには現在約400種のチーズがあるが、そのほとんどは工業的に大量生産、大量流通したもので、伝統的製法によるものは全体のわずか5%のみに過ぎない。このままでは、チーズは一部大企業の均一化・画一化された数種類の商品のみになってしまう恐れがある。チーズの例に限らず、多くの地域農産物は地域経済や環境にとって極めて重要で、いわば社会的意味を持っていると考えている。
環境保全の点でも地域農産物の果たす役割は大きい。例えば、大理石で有名なトスカーナ州のカラーラは、特産の採石業そのものは中国などとの国際競争に負けたものの、その採掘跡で熟成されるラルド・ディ・コロンナータ(生ハムの一種)はスローフード協会の支援によって復活している。そのままでは崩れてしまう山や地域コミュニティも、地域農産物によって維持されているといえる。このように、地域農産物がきちんと地域経済に組み込まれていること、かつそれらが地域経済とのバランスの上に成り立つことにより、はじめて持続的な地域の環境保全が達成されるとしている。
ここでプロジェクトの支援活動による具体的な生産者マーケットの実態をみてみよう。現在の開催規模としては、国内数カ所において試験的に実施されている。開催地の一つであるボローニャでは、既存の露天市場への配慮と差別化から、それらとは別の場所で、通常は小売店が閉まっている日曜に開催されている。また、サルディーニャなどでは、スローフード関連のイベント時に開催しており、午前中は生産者による直売、午後は地域農産物を使ったトラットリア(軽食堂)など、地域農産物に関心を持ってもらうような仕掛けとなっている(写真3、4)。
生産者マーケットの基本的な形態としては、市内中心部の広場などで仮設テントが設置され、25~30人の生産者が店頭に立ち自身の農産物を販売するという形式である(写真5)。生産者間で出荷調整などはしていないため、店頭に同じようなものが並ぶこともあるが、ここでは販売が主目的ではないため特に問題視していない。
ここで対象とする地域農産物とは、決して高品質や高級品といった特別のものではない。もちろん遺伝子組み換え作目などは対象外であるが、あくまで昔から地域にある伝統的・日常的なものになる。このように生産(環境)にも、消費にも持続性のあるものとなると、地域にある在来品種が中心となる。もちろん、生産者はスローフードの理念を理解していることが前提であるが、これら基準の遵守の状況については、他生産者や運営組織に自主的に申告する方法を採っている。
生産者マーケットの開設・設置については、地元自治体や商工会議所、保健所などの各種許認可といったイタリアならではの煩雑な手続きが必要となる。また、生産者マーケットに対する露天市場など既存業者の反発も無いわけではない。それら手続きや関係者間の調整については、地元スローフード協会関係者が中心となって支援する体制となっている。そのため、開設に当たっては事前に生産者とスローフード協会、自治体関係者間での緊密な連携が不可欠となる。開設後は、これら3者によるマーケット運営組織が構成され、厳格な運営規則のもとで運営されている。
生産者マーケットの開設費用として、40ブースの仮設テントを新規に設置する場合、およそ2.5万ユーロ(約382万5千円、2008年9月末時点の1ユーロ=153円で換算、以下同じ)の初期費用が必要となる。また、通常の開催でも、電気代や賃料など1ブース当たり平均100ユーロ(約15,300円)の運営費用がかかる。これは生産者にとっても大きな負担となっているが、現在、国レベルで準備中の直売支援法案(仮称)によっては、このうち半額程度の補助が可能になるとしている。さらに、同プロジェクトは持続可能性を重視した環境保護と農業生産の両立という理由付けによって、EUの地域経済活性化プログラム(LEADER事業)によるサポートがとられている。
実施条件として、一つの生産者マーケット開設には、地域内で最低でも40人程度の生産者を確保する必要がある。そのため、マーケット運営組織では肉類、チーズなどの地域内の販売業者を選定するとともに、野菜類は概ね40キロ圏内の生産者に限定している。現在は不定期な開催形態であるが、今後は毎月継続的に開催し、少なくとも3年程度は継続していきたいと考えている。なぜなら、生産者マーケットの実施・運営に関わる一連のプロセスを通じて、生産者自身が自主的に運営できるようになることが重要であると考えているからである。
先に指摘したように、生産者マーケットでの販売価格については出荷した生産者自身が設定することが原則であり、この点がプロジェクトの重要な目的の一つとなっている。これまで生産者には価格決定権が無く、価格は需給や競合といった市場条件のみで流通側から一方的に決められていたとスローフード協会側では考えている。この点は生産者自身の問題でもあり、それらを自覚せず生産してきたこと、また補助金への依存体質や海外との競合も特に意識していなかったのではないかとみている。
生産者自身が直売を通じて、その価格の理由を直接消費者にきちんと説明できるようになって、初めて価格の透明性が確保されると考えている。価格設定については、それらが公正な理由によるもの、例えば不当な低賃金労働によって生産されたものではないこと、あるいは地域の環境や伝統、生物多様性に配慮した農産物であることなどの理由が求められる。このように、価格設定について一定のルールを持たないとすれば、直売は質よりも量を重視した販売目的になり、生産者が商業者となってしまう恐れがある。実際の価格としては、直売では流通が短縮されることや消費者が日常的に購入できる価格となると、スーパーと同程度の水準になるようである。
プロジェクトの評価としては、生産者マーケットは地域から概ね好評とのことである。もちろん既存の商業者からの反発もみられるが、これが定着して観光客なども集まるようになれば交流の場も広がり、いずれは広く市民に認知されるようになると考えている。生産者自身も、徐々に自分の作ったものをきちんと説明できるようになるなど、当初期待された一定の効果もみられている。自治体側の声としては、このようなプロジェクトを通じて地域農業が再生し、若い人が農業に取り組む一つのきっかけとなればと考えている。そのためには、地域農産物や農業とつながりのある食文化について、生産者とともに消費者に対しても教育や啓蒙活動が必要としている。
食文化の保護・継承といった点でもプロジェクトは着実に効果を上げている。同プロジェクトが先行していたトスカーナ州では、スローフードのプレシディオ(守るべき伝統的食材)でもあるホロホロ鳥やゾルフィーノ豆、赤ジャガイモなど、一時期は失われた地域特産の農産物が復活しつつある。また、それらを食材として利用した村のレストランをオープンさせる計画なども進行している。
今後、スローフード協会側としてはこのような取り組みをさらに広げる意向である。しかし、あくまで数の拡大ではなく、その理念と思想を広げることに重点を置いており、生産者マーケットという小さな経済活動がグローバリゼーションへの対抗手段として、また農業や食料といった食システム全体を考えるきっかけになればと考えている。
最後に、我が国の直売との比較からこれらの事例からの示唆について触れておく。このように、イタリアの直売は既存業者の圧力や制度的制約のもとで限定的に行われていることが分かる。しかしながら、スローフードによる大地のマーケット・プロジェクトのもとでは、直売は地域農産物を通じた食文化の保護といった明確なポリシーのもとで運営されており、生産者だけでなく地域の消費者の支持を着実に獲得しつつある。対照的に我が国の直売では、ややもすると販売優先に陥り、本来の直売の意義である地域農産物、地産地消といった理念を見失っている場合もみられる。この点では、同プロジェクトによる直売支援は、直売とは何か、地域とは何か、あるいは食文化とはといった、我が国の直売の在り方を問い直すきっかけを与えてくれると考えられる。