韓国の野菜といえば、日本向けに輸出されているパプリカ、ミニトマトといった施設野菜がよく知られている。1990年代後半から輸出量が急速に増え、日本の競合産地にも大きな影響を与えるようになった。
2000年以降、日本で消費者の食の安全への関心が高まったこと、原産地表示が徹底されたために輸入量がいったん減少に転じたが、ここにきて再び息を吹きかえしつつある。
一方、輸出振興のために韓国政府は、90年代には施設建設費に手厚い補助金を出してきたが、現在は安全性を重視し、品質の高い農産物に対して集中的に支援するというように方針を変えつつある。
ここ10年で大きく変化をしてきた野菜輸出、および政府の支援策の流れ、さらに最近の韓国の野菜輸出の動向を紹介する。
1.韓国の農産物輸出のこれまでの流れ
(1)輸出振興のきっかけ
韓国で施設栽培が発達したのは、1980年代に入ってからと言われている。それまでは米、麦など基礎的な食糧が絶対的に不足しており、政府の支援も穀物増産に重点がおかれてきた。このため、施設栽培への関心は低く、栽培技術も未熟だった。
80年代に入り、米を完全自給できるようになり、また野菜が周年で求められるようになり、ようやく施設栽培が注目され始めた。栽培面積、生産量が急速に増えたのは90年に入ってからだ。
韓国の野菜作付面積は、約36万ヘクタール(2003年)で、日本の7割程度(約52.8万ヘクタール、2003年)である。1995年以降、面積全体の伸びは止まったが、施設野菜のほうは堅調に伸びてきた。施設栽培の面積は1990年の2.4万ヘクタールから2000年には4.5万ヘクタールと倍以上に増えた。
作付けが増えた背景には、ウルグアイラウンド(UR)対策費として、国際競争力向上を目的に40兆ウォン(1ウォン=約0.1円)を超える補助金が投入され、特に施設建設に手厚い補助が出たことが大きく影響している。
そこに浮上してきたのが日本向けの施設野菜であった。日本には、質の高い農産物を求める消費者が多く、良質な農産物を輸出すれば、韓国の農産物の需要を増やす可能性は高いとみた。こうして、輸送上便利な釜山港に近くの韓国南部で、温暖な産地が施設を建設し、相次いで輸出用の作物を作り始めた。
(2)通貨危機をバネに輸出を大幅拡大
韓国が農畜水産物の輸出を本格化させてから10年余り。2004年の農畜産物の輸出額は約21億ドル。2005年上半期の実績では約10億2100万ドルである。最大の輸出国は日本で約3億5900万ドル(全体の約35%)、ついでアメリカ(1億2400万ドル)、中国(1億200万ドル)と続く。
一方、農畜産物のうち、野菜類は約2億3000万ドル(2004年)で、ここ10年間の輸出額の推移は表1のとおりである。野菜はその大半が日本に輸出されている。
表1 韓国の野菜輸出額の推移
これまでの推移を見ると、大きく3つの時期に区分することができる。
第1段階(1995年~2000年):野菜輸出をスタート。経済危機に直面したが、それをバネに輸出拡大に拍車をかけ、輸出量、金額とも急増した時期
第2段階(2000年~2002年):さまざまな要因が絡まって輸出量が減少に転じた時期
第3段階(2003年~):第2段階の低迷を教訓に改善に乗り出した時期。
第1段階に入り、輸出に力を入れようという産地は、複数の農家を集め、共同で出荷などを行う「輸出団地」を相次いで形成した。そして、いよいよ本格的に輸出を始めようという段階に、大きな壁にぶつかった。97年秋の通貨危機(注1)である。
詳しくは後述するが、当時、施設建設には半額以上の補助金が出ていたこともあり、多くの農家が高額なガラス温室を建設していた。ところが、通貨危機で景気がかつてないほどの冷え込みを見せた。一方、ウォン貨下落で原油、肥料代が高騰し、その負担は農家に重くのしかかった。このため、返済の目途が立たず、負債を抱えこむ農家を大量に排出した。
しかし、こうした危機的な状況が、結果的に輸出拡大を後押しした。負債を抱えた農家たちは、既存の施設を活かして栽培できる作物で起死回生を図ろうとした。
慶尚北道陜川郡。ここでは10名ほどの農家が日本向けにパプリカを栽培している。彼らの施設は、トラックがギリギリ一台通るかどうかという狭い山道を登ったところにあった。切り立つ斜面に沿うようにガラスハウスが建っていた。話を聞くと、UR対策費を使ってガラスハウスを建て、ユリの栽培を始めたものの、通貨危機と中国向けの輸出が減ったために採算が合わなくなったという。寒冷地のため暖房費の負担が重いと知りながら、「借金を返すために、背水の陣でパプリカを始めた」と話していた。
筆者は2001年、2002年に輸出用作物を作っている産地をいくつか訪れたが、「通貨危機をバネにして輸出に力を入れるようになった」という話しをあちこちで聞いた。98年以降、ミニトマト、キュウリなどの輸出が増えたが、政府の振興政策のみならず、危機を乗り切ろうとする農家の奮起が多分に影響したのではないかという見解を持っている。
(3)課題克服し、再び増加傾向に
ただ、順調に輸出量が伸びる時期は長く続かなかった。2000年をピークに減少に転じたのである。
要因は韓国国内にもあるし、最大の輸出国である日本にもある。国内における最大の問題は農家が手にする収益の低さである。
全羅南道高興市は、日本向けにキュウリの栽培をしているが、栽培農家の一人は「輸出向けと国内向けの手取りを比べると、10アールあたり350万ウォンほど輸出向けのほうが少ない」と話す。といっても、キュウリの価格はさほど変わるわけではない。日本向けの場合は規格が厳しいため、必然的に商品化率が下がる。また選別作業も手間がかかり、人件費などの負担がかさむのだという。
また、よく指摘されているのは適正規模を超えた作付けによって生産過剰を引き起こし、農家の手取りが減ってしまうというケースである。一般的な輸出用作物の流通経路は、農家→韓国輸出業者→日本輸入業者→日本の卸売市場、加工業者、小売店という流れである。
取引の多くは契約栽培によるものだが、最終的に日本側のバイヤーが買い付ける量や価格を韓国側のバイヤーと相談するのは出荷直前であり、その頃の日本での作況状況や価格動向を見ながら決める。しかし、韓国の産地サイドは、あらかじめ結んだ契約に沿って作付けをせざるを得ない。あるいは、ある作物に高値がついたという情報が流れると、あちこちの産地で無計画に作付けを増やすことも少なくない。こうしたことが要因となって、「輸出をしても決して儲かるわけではない」という情報が農家の間に広まり、輸出への意欲が減退した。
一方、日本サイドにおける要因としては、安全性を求める消費者の声が大きくなったこと、また生鮮食品の原産地表示が徹底されるようになったため、韓国産の野菜の需要が減ったということがある。
2001年、中国産の冷凍ホウレンソウから基準を超えた残留農薬が検出されて以来、消費者が輸入農産物全体に警戒感を抱くようになった。また、原産地表示制度が本格化し、流通業者が国産にシフトするようになったため、スーパーの店頭における韓国産農産物の需要が減った。こうした影響が野菜の対日輸出に大きな影響を与えた。
だが2002年頃から、表面化したさまざまな問題への改善策を打ち出すようになったこと、さらに2004年は日本における野菜高騰の余波で韓国産のレタス、キャベツの輸出が増えたこともあり、輸出は再び活発になってきた。
日本に輸出している主な野菜の輸出推移(金額ベース)は表2のとおり。他の野菜の郡を抜いているのがパプリカである。生産量の90%以上を日本に輸出しており、単一品目としては2004年に初めて5000万ドルの大台を超えた。オランダなどから栽培技術を導入して品質を高めたこと、農薬安全使用に記録付け、徹底した選別および鮮度を保つための低温流通の導入などが飛躍的な実績につながったというのが韓国内での分析である。
表2 代表的な野菜の輸出量推移
一方、ミニトマトを含むトマトは、国内消費が活発に伸び、国内出荷価格が輸出価格を上回るようになり、輸出は低迷している。イチゴは輸出品種の主力だった「レッドパール」の輸出が、権利をもつ企業に限定されたために大幅に輸出量が減り、キュウリ、ナスは輸出用と国内需要の品種が異なるため、輸出用がダブついた際の出荷先がないという理由で輸出は落ちてきている。
2.これまで実施されてきた支援策
(1)2000年以降大きく変化
日本の農業関係者のなかには、韓国は野菜の輸出振興のために、国を挙げて支援をしているという認識を持っている人が少なくない。しかしたった10年で、野菜輸出が大きな変化を遂げたのと同じように、支援策も大きく変化をした。
前述のように、韓国政府はUR対策費として、施設整備に対する手厚い支援をしてきた。1991年から1996年までは80%(もっとも高い年は95%)の補助率で、このうち50~55%が補助金、残りが低利融資という形をとっていた。だが、その後、徐々に融資の枠が増えていき、1999年には補助金20%、融資60%となり2000年以降は補助金がなくなり、すべて融資事業に移行している。
韓国の農業関係者から、よく「日本で伝えられているほど、韓国は輸出振興のために手厚い支援をしているわけではない」と指摘されるが、2000年以降の政策が頭にある韓国サイドと、それ以前の政策が頭にある日本サイドのギャップによるものだと思われる。
現在、農林部がおこなっている輸出振興のための代表的な支援策は以下のとおりである。
(1)輸出物流費支援事業:輸出にかかる運送費などの一部支援
(2)物流機器共同利用事業:パレット、コンテナなど輸送に必要な機器購入への一部支援
(3)優秀農産物輸出支援事業:高品質な農産物および加工品を生産する農家、団体に対する支援
(4)原油高騰にともなう支援事業:輸出用の施設園芸農家に対し、最高3000万ウォン(法人は1億ウォン)を金利4%、償還期間1年で融資
事業費は、(1)および(2)で約290億ウォン(2005年)。一方、(3)については約3300億ウォン(2005年)が予定されている。(4)については2004年に初めて実施された。
また、農林部の外郭団体である農水産物流通公社は、政府から補助金を受けるなどして、
(1)海外からバイヤーの招待
(2)輸出有望品目の開発
(3)資金支援(流通、加工、貯蔵などに関わる業者に対し、原料購入および施設の近代化などのための資金を3~6%で融資)
(4)輸出振興のための共通ブランド「フィモリ」(後述)の販促費および農家、業者への奨励
(5)海外での展示会参加
(6)輸出のためのコンサルティング
などの事業を実施している。
このように支援策は多岐に渡っているが、2000年までの支援に比べると金額的にはかなり縮小したといえる。
(2)自治体独自の支援が活発化
ただ、政府の支援策のみで、輸出振興策の全体像をとらえることはできない。90年代に順調に伸びてきた輸出が2000年以降、落ち込むようになったことで、輸出振興策には2つのあらたな方向性が示されるようになった。
一つは、輸出に取り組む農家のモチベーションをアップさせるために、自治体が独自で支援に乗り出すようなったという点だ。
1995年以来、日本向けにキュウリを輸出している産地の一つに、全羅南道光陽市がある。「光陽キュウリ」というブランドで日本の市場関係者にも知られほどである。1995年当時は17名に過ぎなかった農家が、ピークの2000年には116農家になり、栽培面積は約33ヘクタール、輸出金額は30億ウォンを超えていた。ところが、日本国内における価格低迷の影響を受け、収益を確保できなくなり、生産が縮小。せっかくブランドを確立した代表的な産地にもかかわらず、産地消滅の危機に立たされた。
そこで、光陽市は2004年から輸出に取り組む農家に対し、3000万ウォン以内での経営資金の低利融資に乗り出すことにした。また、物流費として農家受取価格の10%を還元(業者の場合は2%)するほか種子代、販促代などの支援もすることにした。これによって現在、作付面積はピークの約1/4に減ったが、20名の農家がなお輸出用のキュウリを栽培している。
光陽市以外にも、独自に予算を確保し、物流費や種苗代の一部を支援している自治体は数多い。以下は、自治体が独自で、あるいは農協などと共同で振興資金を造成している一例である。
・輸出振興のために30億ウォンを確保(2005年)。農家受取額の5~6%を物流費として還元。そのほか輸出団地の造成なども支援(全羅南道)
・15の市・郡とともに「新鮮農産物輸出物流費」として10億円を準備。農家に対し、受取額の3~8%を還元(忠清南道)
・輸出向けのパプリカに1キロ当たり233ウォンを物流費として支援(江原道)
・物流費支援として野菜1キロ当たり125ウォン(船便の場合。空輸便の場合は200ウォン)を支援(済州島)
(3)選択と集中にもとづいた支援
もう一つの方向性が、安全性や品質の向上に取り組む農家に集中的に支援をするようになったという点だ。日本で食の安全への関心の高まりへの対応、安価な中国産農産物との差別化を図ることが韓国の野菜にとっては不可欠な要素となった。そこで、韓国産の農産物の競争力向上につながる振興策を打ち出し、支援対象も「選択と集中」にもとづいて実施するようになった。
以下は、そういった支援策の一例である。
・物流費の支援は、年間10万ドル以上の輸出実績のある品目、あるいは同額の輸出実績をもつ業者に限定して受けられるようにした(2002年~)
・農林部は、年間10万ドル以上の野菜を日本などに輸出する業者に対し、生産履歴の添付を義務付けるように決定。履歴を添付した業者に対してのみ、物流費などの支援をする(2003年~)
・高冷地という条件を生かし、南部の産地では作りにくい夏場のトマト、パプリカの生産に取り組み、品質の向上に努める江原道は、輸出振興のために4億円(道が1億円、市・郡が3億円)を予算化。輸出に取り組む農家に受取額の2%(業者は1%)を還元(2004年~)
3.ブランド化を通じ、量から質への転換
2005年春、農林部は「2005年農食品輸出拡大対策」を発表している。そのなかで、同年の農畜産物の輸出金額の目標として、前年対比10.3%アップにあたる23億ドルという数字を掲げた。
こうした強気の数字を示した背景には、2004年からスタートさせた輸出農産物のブランド戦略の効果が現れるだろうという期待が込められているものと思われる。
韓国農水産物流通公社は2004年、韓国政府が認めた農家のみに与えられる「Whimori(フィモリ)」(注2)というブランドを発表した。これは栽培から収穫、選別や包装まで独自の品質管理の下で生産され、かつ、生産履歴のトレースも可能な農産物に限定して使われるブランドである。
現在、日本に輸出されている「フィモリ」ブランドは、パプリカ・梨・菊の3品目。流通公社では徐々に対象品目を拡大し、2008年には11品目まで増やす計画だという。
ブランド名を認知してもらおうと流通公社は、大手量販店でのイベントを行ったり、輸入業者のバイヤーを韓国に招待し、農場に案内したりするなどかなり精力的なPR活動に出ている。驚くことに、韓国を訪れる日本人に、「フィモリ」ブランドの農産物を生産している産地への無料見学ツアーを企画し、毎日(ただし、最低催行人数6名)実施しているのだ。
こうした動きは、もはや「韓国」全体を売り込むのではなく、韓国の優れた「産地」を売り込む戦略の一つではないかと筆者は考えている。というのも、ユーザーである日本の市場関係者がすでにそうした見解を持っているからだ。
野菜から少々話しがそれるが、韓国産のバラ、ユリといえば花きのなかで日本への輸出が多い品目だ。1990年代終盤の通貨機以降、花の栽培を始めた農家が急増し、日本の市場にも韓国産の花があふれかえった時期があったものの、いまではほとんど撤退した。
ところが、一方ではしっかり生き残っている産地もある。市場関係者の間では、「韓国の○○農場のバラだからいい」、「あの輸入商社が仕入れるあの菊はいい」という評価がされているという。つまり、「韓国産だから」という評価から、「個別産地」への評価に移り変わったということである。
「フィモリ」についても栽培技術、品質管理に一定以上のレベルに達した「産地」に限定する形で認定をし、認証された農家にはインセンティブを与えている。
量から質へ――ウルグアイラウンド交渉、通貨危機をバネに「低価格」と「量」で日本のマーケットに入り込んだ韓国の野菜は、「質」を追求し始めている。今後の支援策についても、安全性や品質をいっそう高める方向で実施されていくものと思われる。
「価格は安いが、安全性や品質、ブランド力にかけては国産に劣る」という輸入農産物のつきまといがちな評価から脱出しようとする韓国の輸出農業および支援策に対し、日本の農業関係者はさらに関心を寄せて行く必要があるだろう。
注1:通貨危機
97年に入り、財閥系の企業の破綻が相次ぎ、金融機関の不良債権が累積。韓国に対する信用が低下するなか、タイ発の金融危機が韓国にも飛び火して韓国ウォンが売られ、ウォン貨が大幅に下落。IMF、世銀などが相次いで資金援助、債務の返済繰り延べなど支援を申し出て以来、めざましい復興を遂げたが、韓国経済の成長を阻む大きな出来事となった。
注2:フィモリ
フィモリとは、韓国の伝統音楽である「パンソリ」なかでも、スピードの速い場面やクライマックスを描く場面で使われるリズムのことをいい「農産物の最高品質」という意味が込められている。